地図測量人名事典 |
田坂虎之助(たさかとらのすけ 1850-1919)
広島生まれ、陸地測量師、陸地測量部三角科長、日本の三角測量の礎を築いた。
広島藩士(広島修道館)であった田坂は、明治4年(1871)、20歳にして伏見宮の随員としてドイツ(当時のプロシア)を訪問・留学した。ドイツでは、兵学及び三角測量について学んで、明治15年に帰国、参謀本部測量課に勤務した。
明治以降、軍制は大村益次郎の指導で陸軍はフランス式、海軍はイギリス式で整備が進められ、それぞれの国から多数の技術者を招聘し、指導を受けていた。陸軍の地図作成の分野でもフランス式地図作成が士官候補生らに教えられ、地図作成が行われていた。その後明治14年に地図漏洩事件が起き、イギリス式の技術を持つ幕末以降の地図技術者が整理される。
田坂が帰国したのは、このような状況の中である。それまでのフランス式測量方法はドイツ式に改められ、一等三角測量から始まる現在の三角測量の礎が築かれた。地図もフランスの多色式のからドイツの一色線号(単色)式へと変わり、関連した図式が整備された。陸軍と参謀本部は、軍制の変化を含め、山形有朋の指揮・指導と同技術を習得し帰国した田坂の影響が大きい。
明治18年参謀本部測量局三角測量課長、明治21年陸地測量部発足後は三角科長。
広島藩士(広島修道館)であった田坂は、明治4年(1871)、20歳にして伏見宮の随員としてドイツ(当時のプロシア)を訪問・留学した。ドイツでは、兵学及び三角測量について学んで、明治15年に帰国、参謀本部測量課に勤務した。
明治以降、軍制は大村益次郎の指導で陸軍はフランス式、海軍はイギリス式で整備が進められ、それぞれの国から多数の技術者を招聘し、指導を受けていた。陸軍の地図作成の分野でもフランス式地図作成が士官候補生らに教えられ、地図作成が行われていた。その後明治14年に地図漏洩事件が起き、イギリス式の技術を持つ幕末以降の地図技術者が整理される。
田坂が帰国したのは、このような状況の中である。それまでのフランス式測量方法はドイツ式に改められ、一等三角測量から始まる現在の三角測量の礎が築かれた。地図もフランスの多色式のからドイツの一色線号(単色)式へと変わり、関連した図式が整備された。陸軍と参謀本部は、軍制の変化を含め、山形有朋の指揮・指導と同技術を習得し帰国した田坂の影響が大きい。
明治18年参謀本部測量局三角測量課長、明治21年陸地測量部発足後は三角科長。
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