たなか‐かくえい【田中角栄】
田中角栄
田中角栄
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田中 角栄(たなか かくえい[注釈 1]、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。
注釈
- ^ 戦後すぐの1946年衆院選挙に立候補した際には、自身の名前の読み方を「タナカ カクヱ」としていた。
- ^ 正規の学歴は高等小学校卒。その後、当時は各種学校の扱いであった中央工学校の夜学に通い卒業している。
- ^ 田中がのちに『私の履歴書』に記したところでは、2歳のときにジフテリアに罹患したことが原因と祖母から聞いたという[7]。
- ^ 大麻の献金要請は、進歩党党首をめぐって宇垣一成と町田忠治が対立し、その仲裁として大麻が「先に300万円作った方を党首にする」と提案(大麻は町田を推していた)したことに由来する[35]。
- ^ 戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、この過程で田中は山崎首班の動きに対して党総務会で「いくら占領下でも露骨な内政干渉が許されるのか」と吉田らに訴えたとされる。
- ^ 田中はこの法律による一級建築士資格取得者である。建築士登録が「第1号」であるとする逸話については建築士#その他 2を参照。
- ^ これについては確かに田中と小佐野は親しい間柄で仕事上では懇意にしていたものの「刎頚の友」とまで言える間柄ではなかったと秘書であった早坂茂三や佐藤昭子の著書には著されている。早坂によれば、田中が上京後に働いていた井上工業からの知り合いだった入内島金一が唯一の「刎頚の友」であったという。立花隆によれば、1973年(昭和48年)の国会答弁で田中が入内島金一について「この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」[116]と発言したことから、マスコミ関係者の間で残る2人についての詮索が行われ、その結果、小佐野賢治と中西正光が候補者として挙がり、入内島と中西はマスコミへの露出が少なかったことから、小佐野が「刎頸の友」として有名になったものという[117]。
- ^ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている
- ^ 「飲水思源」という中国のことわざから持ち出された解釈と思われる。
- ^ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
- ^ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
- ^ 1974年生まれであることは週刊文春2004年3月25日号で1974年秋に臨月を迎えているという記述から判明している。
- ^ ゲイタイム産駒の東京優駿勝利馬は1962年〈第29回〉フエアーウイン、1963年〈第30回〉メイズイの2頭である。
出典
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田中角栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
1952年の暮れに、後藤田が「第二機動隊構想」の腹案を実現するため、翌年度予算での警察予算の増額を衆院予算委員会のメンバーであった田中に陳情したことから交流が始まった。飲み込みが早い田中は、実現が困難なことには安請け合いをせずに「それは後藤田君、難しいぞ、しかしやってみるわ」と言い、「わかった」と言って引き受けた陳情は必ず実現することから、後藤田は信頼を深めていった。一方、自治庁税務局長在任時の料飲税導入にあたっては、「手を握ろう」と申し入れてきた当時幹事長の田中を「あんたと手を握ったら高いものにつくから僕はいやだ」とはねのけ、田中を怒らせている。 通産大臣であった田中に警察庁長官退任の挨拶に行った際には産炭地振興公団(現・都市再生機構)総裁のポストを打診されたが、辞退している。なお、長官辞任は過激派対策に疲れて静養しようとしたものであり、次のポストが決まっていたわけではないとしている。第一次田中内閣組閣当日の7月7日の朝に田中から自宅で待機するように言われ、田中の意図を察した後藤田は逃げるべく退官の挨拶回りに出かけた。しかし、自動車電話で呼び出しを受けてしまい、官邸で官房副長官を引き受けるよう田中に言われた後藤田は辞めたいときにはすぐに辞めさせることを条件に了承した。 阿波戦争で破れたことは田中へのダメージとなったが、田中は「ワシのことは気にせんでいい」と後藤田を気遣った。 政界の頂点に上り詰めた田中に対しても後藤田ははっきりと直言し続け、田中もそれを許容した。 後年、「田中派には二階堂(進)、江崎(真澄)、後藤田という3人の首相候補がいる。順番を間違ってはいかんッ」と田中が言ったことがある。これは独自の動きを見せ始めた竹下登を牽制してのことであるが、同時に田中の後藤田に対する信頼の厚さが伺える。田中派の大部分が竹下派になびいた後も、後藤田は組せずに田中への筋を通した。 後藤田は「私が政界入りしてすぐ大臣になったり官房長官として長く政府の中枢にいるなど厚遇されたのも、田中さんのお陰である。(中略)そういう意味で私は田中さんに恩義を感じている」と述べ、「その田中さんが退陣、裁判、病気とお気の毒な境涯にあり、何らお返しのできないまま今日に至っている。それが私の負い目である」としている。
※この「田中角栄」の解説は、「後藤田正晴」の解説の一部です。
「田中角栄」を含む「後藤田正晴」の記事については、「後藤田正晴」の概要を参照ください。
田中角栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:08 UTC 版)
田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で死亡)と小沢が同じ1942年生まれであったため、田中は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。同時に角栄の娘、田中眞紀子との関係もよく(眞紀子も小沢を兄のような存在だと認識している)、旧竹下派の中では唯一田中家から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く眞紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。 かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中眞紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」であるという見方もあった。
※この「田中角栄」の解説は、「小沢一郎」の解説の一部です。
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田中角栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:54 UTC 版)
永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲である一方で総理就任の際は田中の影響力を利用した。同じ1918年5月生まれであり、初当選も同じで第23回衆議院議員総選挙以来当選し続けた同期でもある。また軽井沢にある両者の別荘は隣同士であった(佐藤栄作元首相の別荘も至近距離であり、軽井沢で交流があった)。
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