生田朗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 19:37 UTC 版)
生田 朗 | |
---|---|
生誕 | 1954年11月24日 |
出身地 | 日本・神奈川県横浜市[1] |
死没 | 1988年8月20日(33歳没) |
学歴 | 慶應義塾大学卒業 |
ジャンル | J-POP・ニューミュージック |
職業 | 音楽プロデューサー |
活動期間 | 1975年 - 1988年 |
生田 朗(いくた あきら・Aki Ikuta、1954年11月24日[2] - 1988年8月20日)は、日本の音楽プロデューサー、コーディネーター。妻は、音楽家の吉田美奈子。
来歴
1975年から、山下洋輔・坂本龍一・大貫妙子のマネージャーとなり[3]、1981年からフリーの音楽プロデューサー&コーディネーターとして独立。高橋幸宏・清水靖晃・渡辺香津美らの作品を手がける[3]。
YMO作品のマネジメントやコーディネートを手がけ[3]、アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』のマネージメント、アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』でのコーディネーターなどを行い、1979年の「トランス・アトランティック・ツアー」ではツアーマネージャーを務めた。同年の中野サンプラザでの凱旋公演のメンバー紹介(アルバム『パブリック・プレッシャー』に収録『バック・イン・トキオ』)も、生田によるものである。散開後は坂本龍一のスタッフとなり、坂本の個人事務所を取り仕切っていた[4]。坂本が出演および音楽を担当した『ラストエンペラー』に日本人医師として出演している[3]。
1988年8月18日、メキシコのプエルト・バヤルタで休暇中に運転していた車ごと崖に転落し、2日後の8月20日に死去[4]。
高橋幸宏の1988年発表楽曲「sea-change」(アルバム『EGO』収録)は生田に捧げられたもの。
出演番組
- ミュージック・ワークショップ(広島FM)[2]
脚注
出典
- ^ 「世界的ミュージシャン・ネットを考える生田朗は音楽界のコーディネーター」『テッチー』、音楽之友社、1987年3月、2015年12月15日閲覧。
- ^ a b c d 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、22頁。NDLJP:12276264/12。
- ^ a b c d “【BETTER DAYS】若き天才たちの実験場 “ベターデイズ・レーベル” が起こした奇跡”. ARBAN (2019年10月11日). 2022年11月8日閲覧。
- ^ a b 見城徹 (2002年6月15日). “第6回「ラスト・エンペラー」坂本龍一”. オンリー・イエスタデイ. 幻冬舎. 2015年12月15日閲覧。
固有名詞の分類
- 生田朗のページへのリンク