生田信(いくた のぶ 1885-1950)
陸地測量部測夫、陸地測量部測量隊の劒岳初登頂者。
生田信は、明治18年に本川根町(現・川根本町)の農家の4男として生まれた。東京で郵便配達の仕事に従事する傍ら、陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎の測量隊に測夫として参加した。測夫(測手)は、陸地測量部(国土地理院)における季節雇用の測量助手である。普段は農業などの本業に従事し、現地測量作業が実施される時期だけ測量に駆り出される雇用形態となっていた。主に、測量櫓の設置(造標)、測量標石の埋石、回照・回光などの観測作業補助のほか、宿営・移動に係る雑務なども担当した。陸地測量部から営々と続いた測量は、彼らの助力なくしてあり得なかったのだ。
明治40年7月13日、柴崎芳太郎測量隊の生田信は長次郎雪渓ルートからの剣岳登頂に成功した。その後、測量官柴崎芳太郎も登頂した。しかし、山頂には、既登頂者の存在を示す修験者が遺したと考えられる錫杖の頭と鉄剣があったのだ。生田22歳のときである。柴崎芳太郎測量隊の劒岳登頂のことは、『劒岳・点の記』(新田次郎著)に詳しい。
大正5年には故郷に戻り、昭和6年に川根本町千頭に日用用品店「ノンキ堂」を開店。同店は現在も同所で営まれており、「まちかど博物館」として、貴重な資料を展示しているという。
映画『劒岳・点の記』から
生田信は、明治18年に本川根町(現・川根本町)の農家の4男として生まれた。東京で郵便配達の仕事に従事する傍ら、陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎の測量隊に測夫として参加した。測夫(測手)は、陸地測量部(国土地理院)における季節雇用の測量助手である。普段は農業などの本業に従事し、現地測量作業が実施される時期だけ測量に駆り出される雇用形態となっていた。主に、測量櫓の設置(造標)、測量標石の埋石、回照・回光などの観測作業補助のほか、宿営・移動に係る雑務なども担当した。陸地測量部から営々と続いた測量は、彼らの助力なくしてあり得なかったのだ。
明治40年7月13日、柴崎芳太郎測量隊の生田信は長次郎雪渓ルートからの剣岳登頂に成功した。その後、測量官柴崎芳太郎も登頂した。しかし、山頂には、既登頂者の存在を示す修験者が遺したと考えられる錫杖の頭と鉄剣があったのだ。生田22歳のときである。柴崎芳太郎測量隊の劒岳登頂のことは、『劒岳・点の記』(新田次郎著)に詳しい。
大正5年には故郷に戻り、昭和6年に川根本町千頭に日用用品店「ノンキ堂」を開店。同店は現在も同所で営まれており、「まちかど博物館」として、貴重な資料を展示しているという。
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