湯浅宗親とは? わかりやすく解説

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湯浅宗親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 03:04 UTC 版)

湯浅宗親(ゆあさ むねちか、生没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士御家人紀伊国阿氐河荘[1]地頭となった人物で、日本中世史研究において著名な『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』上で訴えられた当時の地頭その人である。祖父の宗光、父の宗氏についても本項で触れる。


  1. ^ a b c d 「あてがわ」の表記については「阿弖河」「阿氐河」(氐の字は低の旁)、また河を川で表記する場合もある。別名に阿瀬川荘ともいう。
  2. ^ 文永4年(1267年)5月30日「六波羅御教書案」・『高野山文書又続宝簡集』
  3. ^ 文永4年(1267年)12月6日「六波羅御教書案」・『高野山正智院文書』
  4. ^ 後鳥羽天皇の皇子。


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