游楚とは? わかりやすく解説

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游楚You Chu

ユウソ
イウソ

(?~?)
北地太守

字は仲允。馮翊郡頻陽の人《張既集解》。游殷の子張既伝》。

父游殷は同郡の張既に目をかけていた。彼が地方長官の器だと看破した游殷は、我が子游楚の将来彼に託した張既伝》。游楚の人となり天性憂国志士で、のちに蒲阪県令になった張既伝》。

建安十六年(二一一)、曹操関中平定したとき、誰を漢興太守にすべきか分からなかった。そこで張既訊ねると、張既は「游楚の才能文武兼ね備えております」と答えたので、曹操は彼を取り立てた張既伝》。游楚はのちに隴西太守歴任したが、どの任地でも恩恵をもって統治し刑罰用いることは少なかった張既伝》。

太和二年(二二八)春、蜀の諸葛亮大軍をもって祁山侵入し天水南安二郡の領民諸葛亮呼応して太守追放した隴西郡本国との連絡絶ちきられたが、太守游楚は官吏民衆呼び集めて言った。「太守恩徳なく、いま蜀軍襲来して諸郡の官民はみな彼に呼応している。これは諸卿らが富貴を得る好機だぞ。太守はもともとお国のため郡を守っているのだから、死を覚悟せねばならんのが道義。卿らはさっさと太守の頭を打ち落とすがよいぞ」。すると官吏民衆もみな涙を流し、「生死を明府(知事どの)とともにいたし、二心を抱くことはございませぬ」と言った張既伝》。

游楚は彼らのために計略立ててやった。「いま東方の二郡が離叛したからには、きっと襲撃して来るに違いない。まずは力を合わせて堅守しよう。もし国家から救援軍来れば賊軍撤退するだろうから、一郡を挙げて義を守ったことになり、人々爵位恩寵賜うことになろう。もし国家救援軍到着せず、蜀の攻撃日に日に厳しくなるようなら、そのあと太守討ち取って降服して遅くあるまいよ」。こうして官吏民衆は城に籠った《張既伝》。

当時、郡県の要職地元豪族たちによって占められており、太守身一つ外部からやってきた余所者に過ぎなかった。情勢次第では、これら豪族たちが太守の首を手土産敵軍寝返るといったことが常套化しており、ことに涼州では豪族たちの勢力強力だった。このとき天水太守馬遵姜維心意疑って逃走したのは、決して臆病とは言えないのである。しかし游楚は先手打ち、まだ進退迷っているうちに豪族たちを呼び寄せ自分の首を餌にして未然に彼らの寝返り防いだ。見事というほかない。

はたして南安郡が蜀の軍勢引き連れて来て隴西攻撃し始めた。游楚は賊軍迫ると聞き長史馬顒を城門から出して布陣させ、自分城郭の上から蜀の将帥諭告した。「卿が隴地方遮断して東方軍勢一ヶ月のあいだ来られないようにすれば隴西官民攻撃せずとも自ら降服するであろう。もし卿がそれをできないであればいたづら疲弊する結果になるだろう」。そして馬顒に鐘を鳴らし鼓を撃って攻めかけさせると、蜀の人々撤退した張既伝》。

十日余りすると諸軍が隴地方到来し諸葛亮敗走した南安天水では、だれもが諸葛亮呼応した罪に連坐し、破滅した両郡の太守それぞれ重刑加えられた。游楚だけは功績立てて列侯に封ぜられ、長史や掾属もみな官職賜った張既伝》。

諸葛亮大軍率いて祁山進出すると、南安天水安定の三郡が呼応した。もし隴西敗れれば涼州は魏の領有ではなくなっていただろう。たとい馬謖街亭敗北したとしても、冀城を根拠にして魏軍拒めば諸葛亮涼州支配確立する充分な時間を稼ぐことができた。それを阻止したのだから游楚の功績絶大なものがある。列侯に封ぜられ、昇殿許されたのは当然である。

明帝彼の統治を嘉し、詔勅下し格別な引き立てによって昇殿聴許した。游楚は体つき短小で声だけは大きく役人になってからというもの一度参朝したことがなかったので、詔勅被って階(きざはし)を昇ることになっても、儀式作法が分からなかった。帝が侍中命じ、手を引かせつつ「隴西太守、前へ」と号令させたが、游楚は「唯」と言うべきところを大声で「諾」と叫んだ。帝はその方向を見やって笑い彼の労をねぎらった退出したのち、游楚は上表して宿衛任務に就きたいと請願し駙馬都尉任命被った張既伝》。

游楚は学問をせず、遊戯音楽愛好した。そこで歌手召し抱え琵琶・筝・簫を演奏し出かけるときはいつも連れて行った。行くところ行くところで樗蒲投壺をして、自らを楽しませた数年後、ふたたび出向して北地太守となり、七十歳余りのとき卒去した《張既伝》。

参照諸葛亮 / 曹叡明帝) / 曹操 / 張既 / 馬顒 / 游殷 / 関中 / 漢安郡(漢興郡) / 祁山 / 蜀 / 漢陽郡天水郡) / 南安郡 / 馮翊郡 / 頻陽県 / 北地郡 / 蒲阪県 / 隴 / 隴西郡 / 掾属 / 県令 / 侍中 / 太守 / 長史 / 駙馬都尉 / 列侯 / 筝 / 簫 / 樗蒲 / 投壺 / 琵琶


游楚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 06:24 UTC 版)

游 楚(ゆう そ、生没年不詳)は、三国時代の武将・政治家。仲允雍州馮翊郡頻陽の人。父は游殷。魏書張既伝に記載がある。

生涯

父の游殷は年少の張既を長官の器と認め、游楚のことを張既に頼んだ。游楚は激しい気性の持ち主で、生来体つきは小さく声は大きかったという。[1]

蒲坂の令となり、曹操関中を平定した際に張既の推挙で欠員の漢興郡の太守に就任。後に隴西の太守に転任した。[2]それぞれの任地で恩徳によって統治し、刑罰・殺害を好まなかった。

太和2年(228年)、諸葛亮の隴右(涼州東部)侵攻に当たり、官民ともに動揺して天水南安の太守は逃亡してしまい、両郡の民は諸葛亮に呼応した。この時游楚だけが隴西に留まって守備した。游楚は領民・部下に「援軍を待って死守すれば恩賞を貰えよう。援軍が来る前に危うくなったら私の首をとって降伏しなさい」と言って励ました。これによって官民一丸となって城を守った。南安の領民が蜀軍を連れてやって来ると、游楚は長史の馬顒を城門の前で迎撃させた。自らは城門の上から蜀の将に「あなたが東からの援軍を絶って隴を孤立させるなら、一ヶ月もすれば自然に隴西の官吏は降伏するだろう、だがそれができないなら無駄に軍を疲弊させるだけだ」と言い聞かせてから、馬顒に命じて太鼓を鳴らし攻撃をしかけると、蜀軍は立ち去った。十日余り後に魏の救援諸軍が隴地方(涼州)に向かうと諸葛亮は敗走した(街亭の戦い)。天水・南安は賊に呼応したかどで懲罰を受け、両郡の太守も重罰を受けた。一方、隴西の官吏はみな褒賞や官位を得、游楚は列侯に取り立てられた。

明帝はこれを喜んで、詔勅を下して游楚に参内を許可して宮殿に登らせた。が、游楚は生まれてから参内の経験がなく礼儀を知らなかったので、生来の大声で間違った受け答えをした。明帝は微笑んで、游楚をねぎらい励ました。退出したのちに游楚は帝のそばで警備をしたいと上奏して、駙馬都尉に任ぜられた。

游楚は学問をせず、遊戯・音楽を好んだ。歌手を召し抱えて楽器を演奏し、いつも外出に連れて歩いた。行く先々で博打や遊戯をしては楽しんだ。

数年後、再び北地太守に任命され、七十歳余りで死去した。[3]

脚注

  1. ^ 三国志』魏書張既伝に引く『三輔決録注』より。
  2. ^ 『三輔決録注』より。
  3. ^ 『三国志』魏書張既伝に引く『魏略』より。


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