清須会議とは? わかりやすく解説

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清須会議

読み方:キヨスカイギ(kiyosukaigi)

本能寺の変の後事態収拾協議した会議の。


清洲会議

(清須会議 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 08:40 UTC 版)

清洲会議(きよすかいぎ)は、安土桃山時代天正10年6月27日1582年7月16日)に開かれた、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある[1]


注釈

  1. ^ 柴によれば、甲州征伐の後に信長は信忠に「天下の儀も御与奪」の意思を表明するが、その目的として将来的には織田家の家督だけでなく天下人の地位を信忠に、ひいては織田氏の嫡流(信長-信忠-三法師)に継承させる方針を一族・家臣を含めた内外に宣言することにあった[8]
  2. ^ なお、柴は小牧・長久手の戦いの講和後に秀吉は一旦は(三法師の代わりに)信雄を正式の織田家の家督と認めたものの、小田原征伐後の信雄の改易(織田秀雄の家督継承)などを経て、三法師改め秀信を亡き羽柴秀勝(信長の実子)の後継者として織田家の家督に据えたとする[19][20]

出典

  1. ^ 堀新『天下統一から鎖国へ』吉川弘文館、2010年。 
  2. ^ 谷口克広 2012, pp. 276–277.
  3. ^ 小和田哲男 1991, pp. 166.
  4. ^ 柴裕之 2018, pp. 57–58.
  5. ^ a b 谷口央 2011, p. 4.
  6. ^ 谷口克広 2012, pp. 277.
  7. ^ 小和田哲男 1991, pp. 166–168.
  8. ^ 柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』平凡社〈中世から近世へ〉、2020年12月、235-236,267-268頁。ISBN 978-4-582-47747-4 
  9. ^ 柴裕之 2018, pp. 32–46.
  10. ^ 谷口克広 2012, pp. 278.
  11. ^ 宮川展夫「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」『駒沢史学』第78号、駒沢史学会、2012年、 23頁。
  12. ^ 柴裕之 2018, pp. 49–50.
  13. ^ 柴裕之 2018, pp. 56–59.
  14. ^ 柴裕之 2018, pp. 61–64.
  15. ^ 谷口克広 2012, pp. 278–279.
  16. ^ 小和田哲男 1991, pp. 141–142.
  17. ^ 谷口克広 2012, pp. 278–280<史料:11月1日付けの秀吉の家康重臣の石川数正あて書状>
  18. ^ 柴裕之 2018, p. 71.
  19. ^ 柴裕之 2018, pp. 90–91.
  20. ^ 柴裕之 2018, pp. 100–101.
  21. ^ 谷口央 2011, p. 6.


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