河津祐邦とは? わかりやすく解説

河津祐邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/31 06:01 UTC 版)

河津 祐邦(かわづ すけくに、文政4年(1821年) - 明治6年(1873年)。生年不明 - 明治元年(1868年)とも[1][2])は、江戸幕府旗本。別名・河津三郎太郎。徒目付として蝦夷調査ののち、新徴組組頭を経て、外国奉行として横浜鎖港談判使節団参加[1]幕末勘定奉行関東郡代長崎奉行外国事務総裁などの重職を歴任した。家禄は100俵高。官職名は伊豆守。号に龍門など。


  1. ^ a b 河津祐邦(読み)かわづ・すけくにコトバンク
  2. ^ a b 河津祐邦(かわつすけくに) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
  3. ^ 糖屋大和守新番頭に、河津三郎太郎外国奉行に、堀宮内神奈川奉行任命通知東京大学法学部法制史資料室所蔵コレクション
  4. ^ a b c 「長崎を脱出した河津伊豆守」外山幹夫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』中公新書、178 - 180頁。
  5. ^ 関東在方掛は役高2,000石で、河津は安房国上総国下総国常陸国を支配し、下総国相馬郡布佐村(現・千葉県我孫子市)を陣屋とした。なお関東郡代の廃止は同年2月5日であるが、河津の後任は無かった模様である。
  6. ^ a b c 「河津伊豆守祐邦」『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、178頁。
  7. ^ a b 五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館、253 - 255頁。
  8. ^ 前任者である小笠原長行が明治元年正月に外国事務総裁を免ぜられ、山口直毅が同月23日に同職に就任。その際に外国事務副総裁が置かれ、河津がこれに任命される。後に、河津が若年寄に転任して、外国事務総裁は廃止となった。
  9. ^ 「河津祐之」『国史大辞典』3巻 吉川弘文館、734頁。
  10. ^ a b c d e f g 「長崎奉行所の崩壊」外山幹夫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』中公新書 、180 - 183頁。
  11. ^ 長崎奉行所の役所は、立山役所と出島に面した西役所の2つがあった。
  12. ^ 外山幹夫『長崎 歴史の旅』19 - 20頁、同『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』中公新書、180頁。


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