沖一峨
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沖 一峨(おき いちが、寛政8年12月25日(1797年1月22日) - 安政2年8月13日(1855年9月23日)[1])は、江戸時代後期の狩野派(江戸狩野)の絵師。名は貞(てい)。字は子仰(しこう)、子卿(しきょう)。渕泉、探三と称し、剃髪後は静斎と号した。鳥取藩の御用絵師。狩野派から出発しつつも他派の多様な画風を学び、精緻華麗な表現で当時の江戸で人気を博した。
- ^ 生没年などは、息子守固が伝えた墓誌銘による(結城素明 『東京美術家墓所考』巧藝社、1931年)。また、斎藤月岑の『武江年表』安政2年8-9月の条でも、月日は不明だが「画人沖一峨卒」と記され、平凡社・東洋文庫所収の『増訂 武江年表』には8月11日卒との記載がある。しかし、鳥取藩の公式記録である沖家の家譜『沖貞家譜』(鳥取県立博物館蔵)では、文久元年6月2日(1861年7月9日)と書かれている。日々の藩主の行動や、御用人支配の御徒や医師等の人事や賞罰などが記された『江戸御用部屋日記』(鳥取県立博物館蔵)には、安政2年以降も一峨の活動が記されている、士身分の氏名・知行高を記した『組帳』でも、散逸してしまった万延元年と翌年文久元年を除き、30俵5人扶持の家禄が一峨に与えられた記載がある。これらの記述は、一峨健在を確かに感じさせるものであるが、墓誌銘などの報告も無視し難く、どちらが正しいか判別しがたい。
- ^ 幽峨は一峨の肖像画を描いている(東京国立博物館蔵、画像)。
- ^ “総務教育委員会資料” (PDF). 鳥取県. p. 9/12. 2018年6月18日閲覧。
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