極真会館
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極真会館(きょくしんかいかん、英: Kyokushinkaikan)は、大山倍達が創設した空手道団体。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん、英: International Karate Organization Kyokushinkaikan, IKO or IKOK)。通称は極真カラテ。前身は大山道場。
- ^ a b c 第1回全日本選手権から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
- ^ 総本部所属。第20回全日本選手権準優勝・第8回全日本ウエイト制重量級3位・第5回全世界選手権6位。身長175センチメートル、体重90キログラム。サウスポーからの下突きと鎖骨を狙う正拳突き・前蹴り・マサカリキックと呼ばれた外回し蹴りを得意とした。
- ^ 身長191センチメートル・体重100キログラム。北海道支部所属で高木薫の一番弟子。1983年・1984年北海道選手権優勝。第1回オープントーナメント全日本ウエイト制重量級3位・第4回全世界選手権ベスト16・1990年全アジア選手権3位・第22回全日本選手権4位・第5回全世界選手権代表。長身を生かした上段回し蹴り、かかと落とし、膝蹴りを得意とした。現在は新極真会北海道支部外舘道場師範である。
- ^ 試割り用の杉板は、当時の新聞「日刊観光」では2.4センチメートルとあるが、「日刊スポーツ」では2.8センチメートルと表記されている。
- ^ 親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。
- ^ オーストラリア支部長。ハワード・コリンズと同時期に数か月間、本部道場の内弟子となり、修行していた。現在は極真会館 松島派に所属している。
- ^ 当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回全世界選手権では最強の外国人選手と云われた。黒人特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き・蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエルの100キログラムで柔道参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴りで一本勝ち。4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきた。準々決勝で盧山初雄と対戦し、延長1回で判定負けしたが、7位入賞した。現在は誠道塾師範を務めている。
- ^ 1971年7月2日生まれ。カナダモントリオール出身。1990年・1991年カナダ大会優勝。この時点でキャリア5年だが、同年の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会のカナダ代表として出場。身長188センチメートル・体重128キログラムの巨漢でありながら、軽快なフットワークとサウスポーからの突き、上中下段回し蹴りで一本勝ちを奪い、勝ち上がっていった。特に岩崎達也との対戦では、岩崎の右上段後ろ回し蹴りに対して、カウンターの左上段後ろ回し蹴りで一本勝ちを奪った。その瞬間、会場が一瞬シーンとなり、大歓声が沸くほどの見事な勝利だった。準決勝では増田章と対戦。増田の左上段回し蹴りや右後ろ回し蹴りを顔面にヒットされたり、右中段回し蹴りで脇腹に攻撃を受け、正拳突きを鳩尾(みぞおち)に決められ、下を向いて動きが止まるなど自分のペースで試合できなかったが、延長2回まで粘り、惜敗した。3位決定戦では黒澤浩樹に破れ、4位入賞を果たした。その後、1992年米国国際スーパーヘビー級優勝・1994年米国国際優勝の成績を収めた。分裂騒動が起きた時には、政治的問題に巻き込まれないように極真会館を脱会する。その後、キックボクシングに転向、国際大山空手道連盟に所属し、バーリ・トゥードにも参加したり、K-1へ参戦したりした。
- ^ 後に『現代カラテ』→『現代カラテマガジン』と誌名が変わり、真樹日佐夫が編集長になった。
- ^ 『月刊フルコンタクトKARATE別冊 - 大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂、1995年、57頁。
- ^ a b c 高木薫 『わが師大山倍達』 徳間書店、1990年、16 - 17頁、54 - 62頁。
- ^ a b 「第2章 - 再検証極真ジム」『極真外伝〜極真空手もう一つの闘い〜』 ぴいぷる社、1999年、76 - 91頁、93頁、101頁、104頁、108頁。
- ^ a b 『ゴング格闘技』 日本スポーツ出版社、3月8日号、1996年、52 - 53頁。
- ^ a b c 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、72頁、78 - 79頁、85頁、105頁、114 - 119頁、150 - 151頁、164 - 165頁。
- ^ 「<マラソン座談会> 数々の秘話とエピソードで綴る全日本強豪伝 第1回~第11回大会編 『第1回~第2回 山崎、添野、長谷川の三羽烏時代』」『現代カラテマガジン』、真樹プロダクション、1980年10月。
- ^ a b c d 「判定・試し割り」『第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会プログラム』、財団法人極真奨学会・極真会館、1973年。
- ^ a b c d 「◆技ありの導入」、52頁。
- ^ a b c d 「テレビ放映開始」、50頁。
- ^ a b c 「ゴング格闘技12月6日号増刊」『極真カラテ強豪100人 - BATTLE SERIES Vol.9』 日本スポーツ出版社、1994年、45頁、123頁、125頁。
- ^ 小宮極次郎「あわや外国人が全日本王者に? ◆試割りについて」『フルコンタクトKARATEマガジン』第8巻、武道ユニオン、〒1740063 板橋区前野町2-31-9、2016年11月1日、69頁。
- ^ 「極真の歴史 最強の奔流」『極真カラテ総鑑』(初版)株式会社I.K.O. 出版事務局(原著2001年4月20日)、57, 60頁頁。ISBN 4816412506。
- ^ a b 「ヨルダン王室の愛弟子達来たる フセイン国王王妃一行極真会館を御訪問」『現代カラテ』第15巻第52号、1970年8月。
- ^ 極真館吉川支部の鈴木浩平 「極真館吉川支部→思い出の写真 →昭和47年(1972)スペイン皇太子来日 - 迎賓館。
- ^ 佐藤勝昭 『王道の空手』 講談社、1987年、245 - 248頁。
- ^ 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、114頁、150 - 151頁。
- ^ a b c 「特集●郷田勇三 - 空手行路四十年」『格闘Kマガジン』 ぴいぷる社、3月号、2001年、12頁。
- ^ 「国際空手道連盟極真会館 - 年度別昇段登録簿 - 国内」『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年、62頁。
- ^ 「協議会派から緑派へ」、170-171頁。
- ^ 「緑派の分裂と連合会発足」、187-190頁。
- ^ 「新極真会?」、182頁。
- ^ 「新極真会?」、184-186頁。
- ^ ルック・ホランダー; Antonio Pinero (2010年8月13日). “News” (英語). 2010年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月23日閲覧。
- ^ 中村誠支部長辞任に関する文書 - 平成28年(2016年)12月4日
- ^ a b 「”100人組手&世界王者”八巻健志が20年ぶり極真に復帰「実戦で使える本物の空手を」」『イーファイト』、2022年11月3日。2022年12月19日閲覧。
- ^ 「【極真会館】元世界王者でK-1でも活躍したフィリォとグラウベが除名処分に」『イーファイト』、2022年12月11日。2022年12月19日閲覧。
- ^ 商標無効で再審開始決定 「極真会館」使い空手道場
- ^ a b 極真会館商標の過去から現在について
- ^ 極真関連の商標権について
- ^ 極真会館について
- ^ 極真会館支部長連合会設立のご報告
- ^ (一社)極真会館支部長会が始動
極真空手
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20歳の時に上京し、極真会館総本部の内弟子(若獅子寮)となる。1980年に東京体育館で開催された第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に茶帯で初出場し7位入賞。1981年の第13回全日本選手権7位、1982年の第14回全日本選手権5位、1983年の第15回全日本選手権3位と順位を上げた。2ヵ月後の翌1984年1月の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。優勝候補の一人に挙げられた「人間風車」の異名を持つ身長197センチメートル・体重98キログラムの南アフリカのケニー・ウーテンボガードと対戦し、延長4回に及び死闘の末、惜敗した。同年秋に開催された第16回全日本空手道選手権で決勝で黒澤浩樹と対戦し、延長の末敗れ、準優勝。これがフルコンタクト空手の最後の試合となった。
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極真空手
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「エヴェルトン・テイシェイラ」の記事における「極真空手」の解説
9歳で極真会館ブラジル支部に入門。 1999年、サンパウロ州大会で優勝。2000年、ブラジル選抜大会重量級で優勝。 2001年6月10日、『2001全世界ウェイト制空手道選手権大会』重量級に出場。 2001年9月22日、『アメリカズカップ2001』の決勝で田中健太郎を降し、優勝。 2002年3月23日、『極真パリ国際大会2002』の決勝でセルゲイ・オシポフの上段回し蹴りで敗れ、準優勝。 2002年6月29日、『オールアメリカンオープン2002』(アメリカズカップより改称)の決勝でレチ・クルバノフを降し、2連覇。 2003年2月22日、『一撃』のカラテマッチで加藤達哉と対戦し、判定勝ち。 2003年6月21日、『オールアメリカンオープン2003』の決勝でセルゲイ・オシポフを降し、3連覇。 2003年11月1日 - 3日、『第8回全世界空手道選手権大会』の準決勝で木山仁に敗退、3位決定戦でグラウベ・フェイトーザを降し、3位入賞。 2004年5月30日、『一撃』のカラテマッチでピーター・マエストロビッチと対戦し、判定勝ち。 2004年6月19日、『オールアメリカンオープン2004』の決勝でエドゥアルド・タナカを降し、4連覇。 2005年5月1日、『第3回全世界ウェイト制空手道選手権大会』重量級の準決勝でアレキサンダー・ピチュクノフを降し、決勝ではレチ・クルバノフを再延長判定で降し、優勝。 2006年9月23日、『オールアメリカンオープン2006』の決勝でアンドリュース・ナカハラと対戦。反則で減点を受けるなどして判定負け、準優勝となった。 2007年6月23日、『オールアメリカンオープン2007』の決勝では昨年と同じ顔合わせとなったアンドリュース・ナカハラに判定勝ち、優勝。 2007年11月16日 - 18日、『第9回全世界空手道選手権大会』の決勝でヤン・ソウクップに一本勝ち、優勝。外国人選手としては2人目の世界選手権王者となった。 2011年11月4日 - 11月6日、『第10回全世界空手道選手権大会』の決勝でタリエル・ニコラシビリに判定負けし、準優勝。
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極真空手
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全世界空手道選手権大会 (各派閥で全世界選手権が個々に開催されている。)
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極真空手
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プロ野球を引退した翌年の1997年に極真会館(東京城西世田谷東支部)に入門し、黒帯を取得した。1999年3月、数見肇の百人組手の40人目の対戦者を務めたこともある。その経験から、フジテレビのK-1中継の司会を務めていた。 2018年11月、極真空手の公式大会、「全関東空手道選手権大会」に出場し、50歳以上+80キロ以上の部で優勝した。 2019年4月20日、極真空手の国際親善空手道選手権大会に「50歳以上、80キロ超級」の階級で出場し、銅メダルを獲得した。 2021年7月25日、極真空手の東日本空手道選手権大会に「50歳以上+80kg級」で出場し、金メダルを獲得した。
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