りょうしょ〔リヤウシヨ〕【梁書】
梁書
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二十四史 |
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中華人民共和国版『清史』 |
『梁書』(りょうしょ)は、中国南朝の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させた。
概要
同時期に完成した『晋書』などの官撰の正史とは趣きを異に、司馬氏父子の『史記』などに通ずる私撰の史書としての意味合いを持っている。
本紀6巻・列伝50巻で構成されており、南朝梁から陳にかけて編纂された『梁史』も参照にされている。
後世の評価では、概ね公正で体裁も整った良史とされるが、列伝の立伝方針や編纂順序等に難ありとの評価もある。また、引用文以外の文章は当時全盛の駢儷文を採用せず、古文を用いて叙述している点にも特徴がある。
巻五十四 列伝第四十八 諸夷には、倭国を含め、当時の東・東南・西・中央・南アジア諸国について記載がある[1]。倭伝では、倭王武が大将軍に除正されたことなどが記されている。
内容
本紀
列伝
- 列伝第一 皇后 - 太祖張皇后・高祖郗皇后・太宗王皇后・高祖丁貴嬪・高祖阮修容・世祖徐妃
- 列伝第二 - 昭明太子・哀太子・愍懐太子
- 列伝第三 - 王茂・曹景宗・柳慶遠
- 列伝第四 - 蕭穎達・夏侯詳・蔡道恭・楊公則・鄧元起
- 列伝第五 - 張弘策・庾域・鄭紹叔・呂僧珍
- 列伝第六 - 柳惔・柳忱・席闡文・韋叡・韋愛
- 列伝第七 - 范雲・沈約・沈旋
- 列伝第八 - 江淹・任昉
- 列伝第九 - 謝朏・謝覧
- 列伝第十 - 王亮・張稷・王瑩
- 列伝第十一 - 王珍国・馬仙琕・張斉
- 列伝第十二 - 張恵紹・馮道根・康絢・昌義之
- 列伝第十三 - 宗夬・劉坦・楽藹
- 列伝第十四 - 劉季連・陳伯之
- 列伝第十五 - 王瞻・王志・王峻・王暕・王泰・王份・王琳・王錫・王僉・張充・柳惲・蔡撙・江蒨
- 列伝第十六 太祖五王 - 臨川王宏・安成王秀・南平王偉・鄱陽王恢・始興王憺
- 列伝第十七 - 長沙嗣王業・永陽嗣王伯游・衡陽嗣王元簡・桂陽嗣王象
- 列伝第十八 - 蕭景・蕭昌・蕭昂・蕭昱
- 列伝第十九 - 周捨・徐勉
- 列伝第二十 - 范岫・傅昭・傅映・蕭琛・陸杲
- 列伝第二十一 - 陸倕・到洽・明山賓・殷鈞・陸襄
- 列伝第二十二 - 裴邃・夏侯亶・韋放
- 列伝第二十三 高祖三王 - 南康王績・廬陵威王続・邵陵携王綸
- 列伝第二十四 - 裴子野・顧協・徐摛・鮑泉
- 列伝第二十五 - 袁昂・袁君正
- 列伝第二十六 - 陳慶之・蘭欽
- 列伝第二十七 - 王僧孺・張率・劉孝綽・王筠
- 列伝第二十八 - 張緬・張纘・張綰
- 列伝第二十九 - 蕭子恪・蕭子範・蕭子顕・蕭子雲
- 列伝第三十 - 孔休源・江革
- 列伝第三十一 - 謝挙・何敬容
- 列伝第三十二 - 朱异・賀琛
- 列伝第三十三 - 元法僧・元樹・元願達・王神念・楊華・羊侃・羊鵾・羊鴉仁
- 列伝第三十四 - 司馬褧・到漑・劉顕・劉之遴・許懋
- 列伝第三十五 - 王規・劉瑴・宗懍・王承・褚翔・蕭介・褚球・劉孺・劉潜・殷芸・蕭幾
- 列伝第三十六 - 臧盾・傅岐
- 列伝第三十七 - 韋粲・江子一・張嵊・沈浚・柳敬礼
- 列伝第三十八 太宗十一王・世祖二子 - 尋陽王大心・南海王大臨・南郡王大連・安陸王大春・忠壮世子方等・貞恵世子方諸
- 列伝第三十九 - 王僧弁
- 列伝第四十 - 胡僧祐・徐文盛・杜崱・陰子春
- 列伝第四十一 孝行 - 滕曇恭・沈崇傃・荀匠・庾黔婁・吉翂・甄恬・韓懐明・劉曇浄・何炯・庾沙弥・江紑・劉霽・褚脩・謝藺
- 列伝第四十二 儒林 - 伏曼容・何佟之・范縝・厳植之・賀瑒・司馬筠・卞華・崔霊恩・孔僉・盧広・沈峻・孔子祛・皇侃
- 列伝第四十三 文学上 - 到沆・丘遅・劉苞・袁峻・庾於陵・劉昭・何遜・鍾嶸・周興嗣・呉均
- 列伝第四十四 文学下 - 劉峻・劉沼・謝幾卿・劉勰・王籍・何思澄・劉杳・謝徴・臧厳・伏挺・庾仲容・陸雲公・任孝恭・顔協
- 列伝第四十五 処士 - 何点・何胤・阮孝緒・陶弘景・諸葛璩・沈顗・劉慧斐・范元琰・劉訏・劉歊・庾詵・張孝秀・庾承先
- 列伝第四十六 止足 - 顧憲之・陶季直・蕭眎素
- 列伝第四十七 良吏 - 庾蓽・沈瑀・范述曾・丘仲孚・孫謙・伏暅・何遠
- 列伝第四十八 諸夷 - 林邑国・扶南国・盤盤国・丹丹国・干瑽利国・狼牙修国・婆利国・中天竺国・師子国・高句驪・百済・新羅・倭・文身国・大漢国・扶桑国・河南王国・高昌国・滑国・周古柯国・呵跋檀国・胡蜜丹国・白題国・亀茲・于闐・渇盤陁国・末国・波斯国・宕昌国・鄧至国・武興国・芮芮国
- 列伝第四十九 - 豫章王綜・武陵王紀・臨賀王正徳・河東王誉
- 列伝第五十 - 侯景・王偉
梁書諸夷伝
巻五十四 列伝第四十八 諸夷には、倭国を含め、当時の東・東南・西・中央・南アジア諸国について記載がある[2]。各国、歴史的な実在と比定が確認されているもの、未確認のものがある。以下、掲載国とその概要を記す。
海南諸国
- 林邑国 - 「林邑國者,本漢日南郡象林縣,古越裳之界也」
- 扶南国
- 盤盤国
- 丹丹国
- 干瑽利国 - 在南海洲上
- 狼牙修国 - 在南海中
- 婆利国 - 在廣州東南海中洲上
- 中天竺国 - 在大月支東南數千里。天竺と同一
- 師子国 - 現在のセイロン島 - 「天竺旁國也」
東夷諸戎
西北諸戎
- 河南王国 - 河南王者,其先出自鮮卑慕容氏
- 高昌国
- 滑国 - 滑國者,車師之別種也
- 周古柯国 - 周古柯國,滑旁小國也
- 呵跋檀国 - 呵跋檀國,亦滑旁小國也
- 胡蜜丹国 - 胡蜜丹國,亦滑旁小國也
- 白題国 - 白題國,王姓支名史稽毅,其先蓋匈奴之別種胡也
- 亀茲 - 龜茲者,西域之舊國也
- 于闐 - 于闐國,西域之屬也
- 渇盤陁国 - 渇盤陁國,于闐西小國也。西鄰滑國,南接罽賓國,北連沙勒國。所治在山谷中,城周回十餘里,國有十二城。風俗與于闐相類(タシュクルガン・タジク自治県[3])
- 末国 - 末國,漢世且末國也。勝兵萬餘戸。北與丁零,東與白題,西與波斯接
- 波斯国 - 波斯國,其先有波斯匿王者,子孫以王父字爲氏,因爲國號
- 宕昌国 - 宕昌國,在河南之東南,益州之西北,隴西之西,羌種也
- 鄧至国 - 鄧至國,居西涼州界,羌別種也。白水羌ともいい、中国の南北朝時代に羌族が建国。現在の四川省九寨溝県
- 武興国 - 武興國,本仇池
- 芮芮国 - 芮芮國,蓋匈奴別種。魏、晋世,匈奴分爲數百千部,各有名號,芮芮其一部也
関連項目
脚注
- ^ 梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷。
- ^ 梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷。以下、いずれも同リンクより。
- ^ 玄奘三蔵「大唐西域記」
梁書
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『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、倭王の「賛」の死後に弟の「彌」が立ち、その死後には子の済が立ったとする。
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『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、晋(東晋)の安帝の時に倭王の「賛」があり、賛が死ぬと弟の「彌」が立ったとする。
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『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、興の死後に弟の武が立ったとし、南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする。 また梁の高祖(武帝)が即位した際に、武は「征東将軍」に進号されたとする(正しくは「征東大将軍」か)。 『梁書』本紀 武帝紀 天監元年(502年)4月戊辰条では、「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」に進号されたとする(正しくは「征東大将軍」か)。
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『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、済の死後に子の興が立ち、その死後には弟の武が立ったとする。
※この「梁書」の解説は、「興」の解説の一部です。
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『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。 始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國 — 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
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梁書
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『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。 扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國(以下略)(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。 「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳)) — 『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國
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『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、「彌」の死後に子の済が立ち、その死後は子の興が立ったとする。
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『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭では以下のとおり記述される。 南に小人国がありその南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。 其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 — 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
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「古代朝鮮半島関連の中国文献」の記事における「梁書」の解説
新羅傳新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役来適馬韓、馬韓亦割其東界居之、似秦人、故名之曰秦韓。(新羅の人々の、先祖は辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいい、双方の隔たりは大きい、伝承では秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓に来たので、馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させた故に、この名を秦韓という。) 百済傳其言参諸夏、亦秦、韓之遺俗云。(その言葉は、中華諸国や秦の言葉が加わっており、韓に遣された習俗だという。) 其国近倭、頗有文身者。(其の国は倭に近く、刺青をした者が頗る多い。) 諸夷傳東夷条高句麗其俗好淫、男女多相奔誘。(其の風俗は淫らで、男女ともに誘い合う者が多い。)
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