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桜花 (航空機)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/12 11:35 UTC 版)
桜花(おうか)は大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器である。昭和20年(1945年)より実戦に投入された。
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概要
「桜花」は大田正一少尉が考案したいわゆる人間爆弾である。開発担当主任は三木忠直技術少佐である。[1] 発案者を大田光男とする文献もあるが内藤初穂の調査で大田正一であることが分かっている。[2]
桜花は、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。
専門に開発、実用化、量産された航空特攻兵器としては世界唯一の存在とされる。[要出典](しかし航空特攻兵器「剣」も実戦に投入された可能性が指摘されている。)[3]
一一型では母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。
正規軍の制式武器としては世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「人間爆弾」と呼べるものであるが、日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていた。
桜花の命名者は航空本部伊東裕満中佐である。航空機に自然名から名前を付ける発想も彼によるものである。[4] (源田実は渡邉恒雄に命名者と記述されたことがある。[5])
桜花の搭乗員募集は海軍省人事局長と教育部長による連名で後顧の憂いの無いものから募集するよう方針が出された。編成準備委員長は岡本基春となる。[6] 軍令部では土肥一夫が桜花部隊の編成を担当し軍令部第一部部長中澤佑に了承を受ける。[7]
柳田邦男により陰謀論が唱えられることがあるが[8]、桜花が大田の提案から開発まで2週間で進められたなどを理由としており他の文献、関係者[9]による事実認識や時系列と大きく異なっている。
開発経緯
桜花は1081航空隊航空偵察員である大田正一特務少尉により発案され1944年5月に司令菅原英雄中佐に対して上申される。その後、菅原中佐の紹介で航空技術廠長和田操中将に上申され、和田中将は航空本部伊東裕満中佐へこれを提案する。伊東裕満は航空本部高橋千隼の助言で軍令部作戦課源田実に相談する。軍令部第二部部長黒島亀人が了承を与え航空本部は軍令部と協議し中央は1944年8月16日研究試作命令を出し航空技術廠に任務を課した。これにより三木忠直が主担当者となる。[10] しかしこの間に搭乗希望者はいないだろうといった理由から軍令部が協力的でなかったため大田正一は1081航空隊の同僚に相談して署名を集め、我々が乗っていくと中央に希望している。[11]また中央でも研究を開始するかしないかを決めるため意識調査として1944年6月筑波航空隊で戦闘機操縦教官7名に対し必死必殺の兵器への搭乗を希望するかについて聞いている。[12] 岡村基春からも航空特攻専用機の開発要望が大西瀧治郎へ申請されていたため大田の案にこういった動きが集約されたという説もある。[13]
大田は東京帝国大学航空研究所などの協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。民間協力には軍令部源田の紹介状があったとする説もある。兵器の性質から航空技術廠は製造に難色を示したが大田正一は自分が乗っていくと答えて押し切り、脱出装置を装備することで合意したという。航空本部より性能概要が提示され開発が進められた。[14]
1944年8月16日航空本部は発案者の名前から「○大(マルダイ)部品」と名付け、この兵器の正式な試作命令が空技廠に下った。空技廠の試作番号はMXY7。[15]空技廠は山名技術中佐を主務者に任命、実際の設計は、三木忠直技術少佐と、服部六郎技術少佐等が担当した。主翼と艤装を担当した長束巖技術少佐(空技廠飛行機部第二工場主任)は自動操縦装置を搭載して搭乗員が脱出する方法を探ったが、賛同者は無かった。[16]
特攻兵器であることから、ジュラルミンや銅等の戦略物資に該当する各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用し、生産工数を削減するために構造はできるだけ簡素化することとした。そして既存の翼断面を流用するなどした上、大田少尉が持ち込んだ東大航空研究所の谷一郎教授と木村秀政所員の手による風洞実験結果、空力計算書、基礎設計書など基礎資料を基に試作命令から一週間で基礎図面を書き上げ、その一週間後には一号機を完成させた。[要出典]
1944年10月23日空技廠は相模灘において桜花ダミー機の母機からの離脱実験に成功。[17]
1944年10月31日桜花11型単座練習機(K1)長野飛曹によって実用試験成功。[18]
1944年11月20日空技廠は桜花の投下、頭部爆発試験成功。[19]
当初の基礎設計案より実機の変更点としては:
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- 垂直尾翼を当初の1枚から安定性確保及び母機への搭載を容易にするため、双尾翼にした。
- 弾頭重量の機体重量に占める割合が、設計案では80%であったが無理だったため爆薬の重量を56%に減らした。これには固体ロケットの重量が3本で500kgに及んだことも影響している。なお、桜花の爆弾とロケットを除いた部分の重量は450kg程度である。
- 大田案では、動力に秋水と同じ特呂二号薬液ロケット・エンジンが予定されていたが、開発途上で性能も不安定であったため、火薬ロケットに変更された。
- 強度上・重量配分上どうしても尾部と垂直尾翼部にはジュラルミンを使わなければならなかったため完全な鋼・木混合ではなくなった。
- 不発を防ぐため、突入時に弾頭が確実に起爆するように信管を弾頭に1つ弾底に4つ装備していた。
等が挙げられる。
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- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p69、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333
- ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身編』p51
- ^ 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想―未発表資料により解明する究極 のメカニズム』光人社p198
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p70『海軍神雷部隊』戦友会編など
- ^ 中央公論2006年10月号。渡邉恒雄は大西瀧治郎が責任転嫁の対象となり、推進者の黒島亀人、中沢佑、『桜花』の発明者の大田正一とその名を付けた源田実と記述している。記述に関する説明、出典等はない
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p69-80
- ^ NHK スペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀の語った敗戦』p152-154
- ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身編』p58-59
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』、戦友会編『海軍神雷部隊』、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期など
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p66-67、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p65-66、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p63-64
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p78
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p67-69
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p7
- ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)331頁
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p9
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p10
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p11
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p146-147
- ^ 零戦は安定性が高いため比較的操縦しやすかった。
- ^ 前後の水バラストタンクのうち、後側から先に放出しないと機首下げ姿勢を取れない。
- ^ 大型機であり、桜花の搭載によって機動力の低下した一式陸攻は急上昇できない。
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p21
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p187-188
- ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p201-202
- ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p18
- ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ』6(文春文庫、1993年) ISBN 4-16-724014-9
- ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)137頁
- ^ a b 御田重宝『特攻』(講談社文庫、1991年) ISBN 4-06-185016-4
- ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)569-577頁
- ^ a b 内藤初穂「太平洋戦争における旧海軍の「戦闘詳報」」『世界の艦船 No.512』1996年7月号 113頁
- ^ 杉山幸照『海の歌声 神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』(行政通信社、1972年)
- 1 桜花 (航空機)の概要
- 2 用法
- 3 実戦
- 4 戦果
- 5 桜花が描かれた作品
- 6 参考文献