乾正信とは? わかりやすく解説

乾正信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 05:28 UTC 版)

乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。知行1000石。家紋は「榧之内十文字」。


  1. ^ 実際、永禄元年(1558年)に於曾左京亮は、信玄の命によって板垣氏を継いでいる。
  2. ^ 『甲陽軍鑑』には天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたとあるが、『千野文書』の弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに板垣信憲の名前が見えるため、『甲陽軍鑑』の年暦については信頼できない。
  3. ^ 『遠碧軒記』黒川道祐著、延宝3年(1675年)
  4. ^ 「関ヶ原の合戦で陣借りし、乾彦作の推挙によって板垣信方の遺児を召し抱えた」とする説は誤り。宇田友猪が、事実誤認のまま板垣の伝記(『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年)で紹介し、それが『国府村史』竹内英省編、昭和36年(1961年)12月発行に掲載された。昭和38年(1963年司馬遼太郎が『功名が辻』を執筆するにあたって『国府村史』を参照したことによりこの誤りが広まったが、土佐藩の藩政期史料によれば、正信の仕官は天正18年10月7日1590年11月4日)に遠江国掛川であり、乾彦作(乾和信)は、それより5年前の天正13年11月29日1586年1月18日)に起きた近江長浜の大地震の際、一豊の娘・与祢姫を助けようとして夫婦共に圧死(「天正13年11月29日1586年1月18日)於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円。是、見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死」『一豊公紀』)しているため、関ヶ原合戦の時に、正信を推挙することはあり得ない。推挙したのは和信の弟・乾和三である。また、正信を板垣信方の子とするのも誤り。正しくは板垣信憲の子である。(『板垣会』会報第1号)
  5. ^ 『南路志』巻50所収の古文書、「天正18庚午年(1590年)より慶長5年迄於遠州掛川被 召抱士(えんしゅうかけがわにおいて、めしかかえらる、さむらい)」によると、「一、百三十六石 乾加兵衛正信。天正十八年十月被 召抱。慶長六年千石、内鐡炮廿挺。二代金右衛門正行。實山内刑部一照次男。(山内)但馬一長弟。慶安二年十二月死。三代與三兵衛。當左近兵衛家也」とある。
  6. ^ 高知県高知市比島
  7. ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
  8. ^ 永原一照次男


「乾正信」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「乾正信」の関連用語

乾正信のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



乾正信のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの乾正信 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS