東洲斎写楽とは? わかりやすく解説

とうしゅうさい‐しゃらく〔トウシウサイ‐〕【東洲斎写楽】


東洲斎 写楽 (とうしゅうさい しゃらく)

?〜 (??年〜??年)
浮世絵師1年足らずの期間で、140点にものぼる傑作描いた、謎の天才浮世絵画家
浮世絵師生没年生まれ一切不明江戸住み1794年から翌年にかけてわずか10か月に、約140点の錦絵制作した。絵は極めて個性的で、江戸三座役者絵相撲取大童山に限定されており、版元はすべて蔦屋重三郎短期間作品残した後、消えるように制作活動停止した94年夏狂言取材した作品は特に高い評価受けている。

 年(和暦)



東洲斎写楽

読み方:トウシュウサイシャラク(toushuusaisharaku)

作者 邦枝完二

初出 昭和3年

ジャンル 小説


東洲斎写楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 00:55 UTC 版)

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく[3][4]生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師


注釈

  1. ^ 長い間、この図の役名は「大谷鬼次の江戸兵衛」とされていた。しかし、当時のどの番付記録にも「奴」は付いておらず、ただ「江戸兵衛」と記されている。また浅野秀剛によれば、この場合のは武家の奴僕という意味であるが、現存する台帳を見ると江戸兵衛は非人盗賊乞食)達の頭で、武家の下僕なら剃らねばならい月代も残っている事から「奴」はないと考えられる[1]。だがこの説には異論があり、いくつかの意味がある「奴」について、「武家の奴僕」というひとつの意味に固執しすぎていると指摘される。岩田和夫の示教によって、「奴には、武士の奴僕の意のほかに、競(きおい)・男達(おとこだて)の意味もあり、狂言によっては、江戸兵衛(平)がそういう役柄で登場する場合もあった。その際「奴江戸平」という役名になることもあったことが確かめられる。」と浅野自身ものちに認めている[2]
  2. ^ ただし、役者版下絵は2点が行方不明、相撲版下絵は9点が大正期に焼失している。そのため現在存在する楽の役者版下絵は、ギメ東洋美術館2点、ボストン美術館2点[6]シカゴ美術館1点[7]、摘水軒記念文化振興財団(千葉市美術館寄託)2点、の計7点(ギメ所蔵の2点のみ「写楽画」の落款あり)、相撲版下絵は個人蔵の1点のみである[8]
  3. ^ 『増補浮世絵類考』(正確にはケンブリッジ大学図書館所蔵の斎藤月岑自筆本)の発見は1960年代になってからであり、斎藤十郎兵衛が疑われ、別人説が支持された1950年代までの浮世絵研究者は、肯定論・否定論を問わず、『増補浮世絵類考』の写楽記事を知らなかったということは留意が必要である。[11]
  4. ^ ただし、寛政六年当時は戯作・浮世絵等の市販には事前の検閲が必要であり、制度上、作者の身元がしれない出版物は許可されなかった。寛政二年五月の町触れには「一 都て作者不知書物類有之は、商売致間敷候」の一条が見える[12]
  5. ^ 狩野寿信編『本朝画家人名辞書(下)』(大倉書店,1893年)「歌舞妓堂」並びに「写楽」の項[13]で、両者を同一人物として見做している。『SHARAKU』を著したクルトは林忠正[14]、バルブートーの先行研究を踏まえ、写楽が歌舞妓堂艶鏡に改名したと考えていた[15]
  6. ^ 田中は『浮世絵類考』の一部の写本に、写楽と北斎を同一人物と読めることを論拠に上げている[16]。しかし、これは伝写の過程で北斎の記述が紛れ込んだものだと考えられる[17]。また、田中は写楽と北斎の武者絵における脛の描き方の類似も根拠として挙げている。しかし、北斎の師で、写楽が作画の参考にしたと推定される勝川春章、及びその弟子たちの脛の描き方も類似している[18]
  7. ^ 同じ時期に八丁堀地蔵橋に住んでいた人物に、国学者村田春海南町奉行所与力儒者中田粲堂、斎藤月岑が絵を学んだ文人画家谷口月窓がいる。
  8. ^ 国立国会図書館所蔵本の記号の書入れについては諏訪春雄が筆跡による考証を試み、記号の書入れには四種類あって、写楽斎の故人の記号は後人による書入れだと判断を下している[27]。『諸家人名江戸方角分』の写楽斎記事の存在を最初に報告した中野三敏も、文政元年以後の物故者の記事にも故人の記号が複数あることや、本文とは別筆による書入れが存在することは認識していた(中野三敏 1976)。
  9. ^ 中野三敏は「方角分」の故人印が数次にわたって書き入れられているとしながらも、当初は写楽の項目に付せられた故人印を「方角分」成立時のものとみなし、写楽を「文政元年の時点で故人」としていた[28]。後年になり、諏訪春雄の指摘を受けて当該部分を「つけてある故人印を、もし原本にあった通りのものと認定出来れば、文政元年には故人となっている」に訂正している[29]
  10. ^ 法光寺は平成5年に越谷市三野宮へ移転したが、それまでは築地にあった(越谷市公式ホームページ「江戸幕府は西本願寺に対し八丁堀先の海辺を代地として指定し、本願寺はその地を埋め立てて御堂を建設。この御堂が現在の西本願寺築地別院の始まり」)。
  11. ^ 斎藤十郎兵衛説への批判には、石田泰弘『東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義』などがある[30]
  12. ^ 達磨屋伍一旧蔵本、奈河本助(二代金沢竜玉)旧蔵本。達磨屋伍一旧蔵本は奈河本助旧蔵本を書き写したものだと考証されている。奈河本助は天保13年(1842年)に死去しているため、奈河本助の手による書き込みなら、斎藤月岑の増補以前の加筆ということになる[31]
  13. ^ 第3期間版役者絵11枚を除く。
  14. ^ 日本国内の書籍などではしばしば美術評論家・心理学者として紹介されるが、ドイツ語版Wikipedia記事での肩書はPfarrer(牧師)・Privatgelehrter(民間の研究家)・Autor(著述家)である。ベルリン大学でプロテスタント神学を学び、1886年ハイデルベルク大学哲学部博士。日本・中国の木版画に関する著作を多数手がけた他、エジプト、近東の古美術のコレクターで、クルトのコレクションは死後にマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの考古学博物館に収蔵された。
  15. ^ ただし、『Sharaku』刊行以前の日本国内でも、明治36年(1903年)に酒井好古堂から『写楽名画揃』が刊行されている。
  16. ^ 明治34年(1901年)2月15日『読売新聞』に飯島虚心の記事「写楽の雲母絵」があり、当時、写楽の贋作が盛んに作られていたことを記している。
  17. ^ ユリウス・クルトは『SHARAKU』が初めての浮世絵関係の著作だったわけではなく、『Utamaro』(明治40年(1907年))[40]、『Harunobu』(明治43年(1910年))をすでに刊行していた。
  18. ^ 近年の例では、平成23年(2011)5月開催の特別展『写楽』(東京国立博物館東京新聞NHKNHKプロモーション主催)の図録に「ドイツの美術評論家ユリウス・クルトは、すでに100年前、写楽をベラスケスやレンブラントとならぶ世界三大肖像画家として評価しています」[43]との記述があり、国内外で同展覧会の広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  19. ^ 『写楽 SHARAKU』以前の日本語訳としては中川四明(四明老人)による抄訳「寫樂の雲母繪」(『京都美術』芸艸堂、1917年27号~29号)、『浮世絵芸術』誌に掲載された井上和雄(雨石)の研究ノート[44]があるが、「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。
  20. ^ 『写楽 SHARAKU』刊行後の平成7年(1995)10月開催の『大写楽展』(東武美術館(2001年廃館)・NHK・NHKプロモーション主催)の図録に「今世紀になってドイツ人ユリウス・クルトによって、いわば再発見され、ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家という評価も獲得しました」との記述があり、広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  21. ^ 2020年9月刊行の『浮世絵の解剖図鑑』に「後の世、海外の評論家からベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界の三大肖像画家」と言われるようになります」[46]との記述があるが、同書は提唱者の名前を挙げておらず、また出典の提示はない 。
  22. ^ 菅原真弓は、ベラスケスやレンブラントに並ぶ三大肖像画家の一人という賞賛がクルトの『SHARAKU』に記されていないことを指摘した上で、クルトの写楽論と日本の写楽研究の≪ズレ≫についての興味深い論考として岸文和論文を紹介している[48]
  23. ^ 仲田勝之助論文「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年6月号)には「欧州の浮世絵愛好家に見出され、一躍レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家として認識」されるに至ったとあるだけで、出典は挙げていない。
  24. ^ ユリウス・クルトの写楽研究を最初に日本に紹介したとされるのは1914年発表の永井荷風の論文「浮世絵と江戸演劇」[51]だが、これには「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。野口米次郎は『写楽』(第一書房、1926年)並びに『美の饗宴―六大浮世絵師論』(早川書店、1948年)を著し、両書で詳細にクルトの論を紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。鈴木重三著『写楽』(講談社、1966年)では、フェノロサ、クルトをはじめ、外国人研究者たちの写楽評を詳しく紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。
  25. ^ 近藤市太郎編『写楽』(大日本雄弁会講談社、1955年)は仲田の『写楽』を参考文献に上げ、「ミュンヘンの一書肆から1910年に出版された『SHARAKU』によって、彼はレンブラントやベラスケスにも比肩すべき世界的肖像画家の栄誉を与えられたのである」と紹介している。同書はポール・ブルームの訳により“Kodansha Library of Japanese Art Series”中の一冊『Toshusai Sharaku』(C.E. Tuttle社英語版 , 1955年)として英訳版が刊行されている。
  26. ^ ただし、瀬木慎一自身も『江戸美術の再発見』(毎日新聞社、1977年)p179などで「写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家とする説がドイツ人クルトによって唱えられ」たといった趣旨の説明を行っている。
  27. ^ 高橋を会長として発足した日本浮世絵協会編『浮世絵名作選集 写楽 』(山田書院、1968年)のはしがき(文責者なし)には「世界中の人々から、レンブラントやベラスケスと並んだ世界の三大肖像画家として絶賛され、仰がれている」とあるが、『SHARAKU』の中にそうした文章があるとは書いていない。

出典

  1. ^ 浅野秀剛 2002, p. 55
  2. ^ 写楽:特別展 2009「江戸兵衛」の項。
  3. ^ 岩田秀行 2013, pp. 73–79(リンク切れ)
  4. ^ フィラデルフィア 2015, p. 190
  5. ^ ACジャパン2015年度の日本脳卒中協会支援キャンペーン「写楽」のCMで原画の画像データを加工して制作された画像が使われ、特にテレビCMでは動画アニメになっており、視聴者に脳梗塞の症状をビジュアルでわかりやすく表現している。(2016年7月現在、このCMはYoutubeなどで閲覧できる。こちらのURLなどを参照。>https://www.youtube.com/watch?v=G6xW4Zpx8Zc
  6. ^ [1][2]
  7. ^ [3]
  8. ^ ギメ東洋美術館所蔵 2007, p. 211
  9. ^ 浅野秀剛 2013, pp. 7–23
  10. ^ 大田南畝 著、仲田勝之助 編『浮世絵類考』岩波書店、1941年、118-119頁。NDLJP:1068946 
  11. ^ 小山騰 2020
  12. ^ 『御触書天保集成』下809(触書番号6417)
  13. ^ 本朝画家人名辞書. 下” コマ番号63番並びに65番
  14. ^ Dessins, estampes, livres illustrés du Japon” T. Hayashi, 1902.
  15. ^ ユリウス・クルト著 定村忠士・蒲生順二郎訳 1994, p. 188-189
  16. ^ 田中英道 2000田中英道 2011
  17. ^ 中嶋修 2012, pp. 15–16。
  18. ^ 大武者絵展 2003
  19. ^ 石田泰弘「写楽歌麿同人説」  福岡市美術館編『大歌麿展』公式図録(テレビ西日本、1998年1月6日)に収録。
  20. ^ 福富太郎『写楽を捉えた―浮世絵新発見』(1969年、画文堂)
  21. ^ NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』(1984年、日本放送協会)
  22. ^ 井上和雄『写楽』昭和15年に「又能油画号有隣」の引用あり。出典は大草公弼『異本浮世類考』
  23. ^ 『写楽実は俳人谷素外』(『読売新聞』昭和44年10月16日号、日本浮世絵博物館館長・酒井藤吉)
  24. ^ 榎本雄斎『写楽―まぼろしの天才』(1969年、新人物往来社
  25. ^ 中島節子「東洲斎写楽はオランダ人だった」(『芸術公論』昭和60年5月 - 61年3月号)、福富太郎「写楽は司馬江漢+Xだ!」(『歴史読本』昭和60年12月号)。フィクションでは弘兼憲史ハロー張りネズミ』他多数。
  26. ^ 江戸方角分 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年5月30日閲覧。
  27. ^ 朝日新聞 平成9年(1997年)7月3日夕刊紙面
  28. ^ (中野三敏 1976)。後に、中公新書『写楽』(2007年)に再編したものを掲載。
  29. ^ 中野三敏『写楽』中公新書、2007年
  30. ^ 石田泰弘「東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義」 九州藝術学会編『デアルテ:九州藝術学会誌』2019年
  31. ^ 藤井史果「栄松斎長喜:その画業と実像に迫る」 太田記念美術館編『浮世絵研究 (7)』2016年
  32. ^ 以上の確認点数は、中嶋修 2012による。
  33. ^ 松木寛 1985
  34. ^ 扇面お多福図」シカゴ美術館蔵など。
  35. ^ 小林忠 2009a, pp. 428–432、小林忠 2009b浅野秀剛 2011, pp. 6–16「写楽の肉筆扇面画」。
  36. ^ 歌舞伎事典 2011, p. 297。
  37. ^ 中嶋修 2012, p. 462。なお本著では、原本ではなく図版写真による鑑定ではあるが、写楽作品を悉皆的に精査し、第2期最初の「篠塚浦右衛門の都座口上図」以外は後世の模刻の可能性があることを指摘している。
  38. ^ 歌舞伎大事典 2012, p. 331。当項目の執筆は、岩田秀行
  39. ^ 日本語版 アダチ版画研究所
  40. ^ インターネットアーカイブ F.A. Brockhaus
  41. ^ 中山幹雄 1995, pp. 45–46
  42. ^ 内藤正人 『うき世と浮世絵』 東京大学出版会、2017年4月28日、pp.181-186、ISBN 978-4-13-083071-3。ただし、2015年に作られたリブート版『サンダーバード ARE GO』では、撤去されている。
  43. ^ 写楽:特別展 2009「ごあいさつ」。
  44. ^ 飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉1」『浮世絵芸術』第59巻、国際浮世絵学会、1979年、23-33頁、CRID 1390567901499798528doi:10.34542/ukiyoeart.555ISSN 0041-5979 
    飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉2」『浮世絵芸術』第61巻、国際浮世絵学会、1979年、11-27頁、CRID 1390004951546390912doi:10.34542/ukiyoeart.571ISSN 00415979 
  45. ^ ユリウス・クルト著 定村忠士・蒲生順二郎訳 1994, p. 257
  46. ^ 牧野健太郎著『浮世絵の解剖図鑑』エクスナレッジ,2020, p.85
  47. ^ 岸文和「西洋近代が見た日本近世――クルトの『SHARAKU』に潜む《暴力》について――」 同志社大学人文科学研究所編集『社会科学』2002年1月68号, p.37。同論文は岸文和著『絵画行為論――浮世絵のプラグマティクス』(醍醐書房、2008年)に「寛政六年の笑い――【穴を穿つ】役者絵」と改題の上、再録されている。
  48. ^ 菅原真弓「浮世絵研究の功罪 : 近代における浮世絵受容とその波紋」『美術史論集』第18号、神戸大学美術史研究会、2018年2月、27-44(p.42)、doi:10.24546/E0041492NAID 120006496780 
  49. ^ 『決定版写楽 : 幻の絵師の正体』 写楽 : 日本史上最大の謎「写楽」に迫る、学習研究社〈歴史群像ライブラリー〉、1995年、56頁。 NCID BN12920147 
  50. ^ 中嶋修 2012, p. 241
  51. ^ 『江戸芸術論』(岩波文庫,2000年)等に収録
  52. ^ “近代デジタルライブラリー『写楽』コマ番号77
  53. ^ 佐々木幹雄『「写楽」を教えてくれたクルト-100年目の新事実-』 大好きドイツエッセイコンテスト2009優秀賞。
  54. ^ “近代デジタルライブラリー『アルス美術叢書. 第23編』コマ番号137
  55. ^ 及川茂「海外事情 最近の欧文による浮世絵研究文献 連載一」『浮世絵芸術』第156巻、国際浮世絵学会、2008年、88-89頁、CRID 1390006050800648448doi:10.34542/ukiyoeart.1505ISSN 0041-5979 
  56. ^ 『プロジェクト写楽 新説 江戸のキャラクター・ビジネス』武田ランダムハウスジャパン,2011年, p.33
  57. ^ 高井忍『東洲斎写楽「伝説」考』 『歴史研究』歴研、2019年10月号
  58. ^ 『知られざる鬼才天才』春秋社,1965, p.181
  59. ^ 瀬木慎一 2008, p. 98
  60. ^ The Japanese Print: A Historical Guide 』Weatherhill、1982年、p101
  61. ^ Toshusai Sharaku』C.E. Tuttle社、1955年
  62. ^ «Exposición de Sharaku en el Museo Nacional de Tokio» (現在リンク切れ)
  63. ^ 木村東介『女坂界隈』大西書店、1976年、38p。初出は1967年5月。
  64. ^ 霜田静志『東洋の名画』造形社、1965年、252p。
  65. ^ 三谷松悦「写楽に就て」 『浮世絵芸術』浮世絵同好会、昭和12年4月号
  66. ^ 『台東風俗文化史』東京都台東区役所、1958年、277p。
  67. ^ The Floating World』University of Hawaii Press,1954年, p.172。
  68. ^ 歌舞伎、その浮世絵に描かれた華麗な美の世界!(リンク切れ)。
  69. ^ 小林忠監修 2006, p. 84


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