東洋工業サッカー部とは?

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東洋工業サッカー部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/07/18 18:19 UTC 版)

東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、自動車メーカー東洋工業(現マツダ)に存在していたサッカー部。 のちにマツダサッカークラブに改名、Jリーグ創設に伴いチーム名を改称したサンフレッチェ広島の前身。

目次

概要

創部は1938年。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初期から所属し、1960年代全盛期を極めた。 さらに、後身のサンフレッチェ広島を含め2009年1月までに、国内最多58回の天皇杯本大会出場回数を誇り、決勝進出も国内最多の13回と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。

本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。ホームスタジアムは県営広島スタジアム[1]。ユニフォームカラーは青。

現在Jリーグに所属するサンフレッチェ広島の母体である。なおこのチームの2軍(サテライト)は現在中国社会人リーグに所属するマツダSCとして活動している。

また、OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。

歴史

創設期

戦前からサッカーが根付いていた広島[2]1938年(昭和13年)、山崎芳樹を中心に同好会形式で創部した。このころは呉海軍工廠が圧倒的に強く、全国大会には1度も出場出来なかった[3]

1943年(昭和18年)太平洋戦争のため休部。1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、会社も多くの社員を失った。

戦後復興の最中、蹴球部も1947年(昭和22年)に再スタートし、銭村健次小畑実ら地元出身の有力選手が入団。1949年(昭和24年)、全日本選手権大会(天皇杯の前身)に実業団チームとしては初出場を果たした[4]。これ以降、有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権・全日本実業団国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。

1950年代

中 川
堀 田
浜 井
黒 木
芳野統男
小 川
1954年天皇杯決勝メンバー。WWシステム。慶應義塾大学体育会ソッカ-部K.B.F.ホームページ参考。

1954年(昭和29年)、実業団として初めて天皇杯決勝に進出も準優勝(3-5対慶大BRB)。この決勝は、第4延長3時間にもおよぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。

1955年(昭和30年)、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。しかし1956年(昭和31年)、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。1957年(昭和32年)も天皇杯決勝進出するも準優勝(1-2対中大クラブ)[5]に終わる。

この活躍から主力選手が全日本(現在のサッカー日本代表)に選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏下村幸男の2人が選ばれた。

また、このころになると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる[6]

1960年代

1962年(昭和37年)、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が日本年間最優秀選手賞を受賞した。

1965年JSL初年度メンバー。ちなみに小沢と松本以外は広島県出身。登録上は4-2-4だが実際は桑田がHBに近い4-3-3。サッカーマガジン71年6月号参考。

1965年(昭和40年)からスタートした日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた[7]

JSLの記念すべき第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対ヤンマー戦(現・セレッソ大阪)で記録した11-0は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、1968年(昭和43年)まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。さらに天皇杯では、1965年第45回大会で初優勝すると、1965年-70年の6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った[8]。また国際舞台では、1969年(昭和44年)の第2回アジア・クラブ選手権に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。

このときのメンバーの多くは全日本に選出され、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達桑原楽之松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。

1950年代から1960年代にかけては"広島サッカーの時代"と言ってもよく、多くの広島出身者が、関西・関東のサッカー強豪大学や全国の実業団に進みチームの中核となった。例えば、前記1968年のJSL登録選手は、2位埼玉県(22人)を大きく引き離す43人とダントツ1位で、東洋工業サッカー部はその象徴でもあったのである[9][10]

この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスイーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスイーパーシステム流行へと向かった[11]

1970年代

1978年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-3-3スイーパーシステム。47News天皇杯特集参考。

しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭や主力選手の引退[12]、親会社である東洋工業の業績不振[13]、広島サッカー界の地盤沈下[2][14]などの要因により、実力が徐々に低下していった。

1977年(昭和52年)には黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良渡辺由一安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌1978年(昭和53年)には天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。

しかし、大卒の即戦力選手獲得には東洋工業の経営不振から後手に回り[15]世代交代が進まず[16]、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたものの、これ以降外国人選手補強にも消極的な姿勢を見せた事[17]で、1980年代に入ると問題は深刻化[18]する事になる。

1980年代

1981年(昭和56年)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌1983年(昭和58年)一度目の2部降格をする事になった。

1987年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-4-2システム。47News天皇杯特集参考。

そこで1984年(昭和59年)に今西和男が総監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフト(後のマツダSC監督)をコーチ[19][20]に、ディド・ハーフナーGKコーチ(選手兼任)に招聘。また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった[21]過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた(詳細はサンフレッチェ広島の下部組織#マツダSCの試みを参照)。

オフトの下で組織的に訓練されたチームは1985年(昭和60年)にJSL1部昇格、天皇杯ベスト4進出。翌1986年(昭和61年)、マツダサッカー部に名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。1987年(昭和62年)にはオフト監督のもと、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、天皇杯準優勝(0-2対読売クラブ(現・東京ヴェルディ))するが、リーグ戦では不振が続き二度目の2部降格となった。

その後、1989年(平成元年)に当時、ブンデスリーガ2部でプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあって1991年(平成3年)にJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-1992シーズンはフジタ(現湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。

略歴

  • 1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
  • 1943年 : 休部
  • 1947年 : 活動再開
  • 1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯出場
  • 1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
  • 1956年 : 全日本実業団初優勝
  • 1957年 : 天皇杯準優勝
  • 1962年 : 国体初優勝、全国実業団優勝
  • 1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
  • 1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
  • 1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
  • 1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
  • 1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権3位
  • 1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
  • 1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1978年 : 天皇杯準優勝
  • 1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1983年 : JSL2部降格
  • 1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
  • 1985年 : JSL1部昇格
  • 1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
  • 1987年 : 天皇杯準優勝
  • 1988年 : JSL2部降格
  • 1991年 : JSL1部昇格

JSL成績

カテゴリ 順位 勝点 得点 失点 JSLカップ 天皇杯 監督
1965 JSL 優勝 26 12 2 0 44 9 - 優勝 下村幸男
1966 JSL 優勝 25 12 1 1 43 6 準優勝
1967 JSL 優勝 22 10 2 2 37 16 優勝
1968 JSL 優勝 21 10 1 3 31 11 1回戦敗退
1969 JSL 2位 21 10 1 3 31 10 優勝
1970 JSL 優勝 23 11 1 2 33 5 準優勝
1971 JSL 6位 10 3 4 7 11 17 予選敗退 大橋謙三
1972 JSL1部 3位 16 7 2 5 20 13 ベスト4
1973 JSL1部 8位 14 4 6 8 16 28 ? ベスト4
1974 JSL1部 6位 18 6 6 6 20 25 - ベスト4
1975 JSL1部 8位 12 4 4 10 20 29 ベスト16
1976 JSL1部 8位 15 5 5 8 16 20 ベスト16 ベスト16 松本育夫
1977 JSL1部 4位 42 9 2PK勝 2PK敗 5 38 20 GL敗退 ベスト16 小城得達
1978 JSL1部 6位 34 7 3PK勝 0PK敗 8 23 34 GL敗退 準優勝
1979 JSL1部 6位 33 5 4PK勝 5PK敗 4 20 19 1回戦敗退 ベスト16
1980 JSL1部 7位 15 6 3 9 22 26 ベスト16 ベスト16
1981 JSL1部 8位 13 4 5 9 15 27 2回戦敗退 1回戦敗退 二村昭雄
1982 JSL1部 8位 14 5 4 9 14 24 2回戦敗退 ベスト16
1983 JSL1部 10位 12 5 2 11 15 31 2回戦敗退 ベスト16
1984 JSL2部 6位 18 7 4 7 24 20 ベスト16 2回戦敗退 今西和男
1985 JSL2部・西 _ 12 5 2 3 14 10 1回戦敗退 ベスト4
JSL2部・上位 2位 11 3 5 2 13 10
1986-87 JSL1部 7位 23 6 11 5 17 17 1回戦敗退 2回戦敗退
1987-88 JSL1部 11位 13 2 9 11 8 18 2回戦敗退 準優勝 ハンス・オフト
1988-89 JSL2部・西 _ 22 9 4 1 24 6 ベスト16 1回戦敗退 今西和男
JSL2部・上位 5位 14 5 4 5 16 9
1989-90 JSL2部 3位 67 20 7 3 62 20 2回戦敗退 ベスト16
1990-91 JSL2部 2位 74 24 2 4 76 17 ベスト16 2回戦敗退
1991-92 JSL1部 6位 27 7 6 9 30 23 ベスト4 2回戦敗退 今西和男(総監督)

国際試合

開催年月日 大会名 対戦相手 開催スタジアム スコア 勝敗
69年1月15日 アジアクラブ選手権1969グループBリーグ イスラエルの旗 マッカビ・テルアビブFC 2-3 敗北
69年1月17日 アジアクラブ選手権1969グループBリーグ イランの旗 ピルズィ・テヘラン 1-0 勝利
69年1月21日 アジアクラブ選手権1969グループBリーグ 香港の旗 九龍バス 1-0 勝利
69年1月24日 アジアクラブ選手権1969グループBリーグ マレーシアの旗 ペラFA 1-0 勝利
69年1月28日 アジアクラブ選手権1969準決勝 大韓民国の旗 ヤンジーFC 0-2 敗北
69年1月30日 アジアクラブ選手権1969・3位決定戦 インドの旗 マイソール州選抜 2-0 勝利

主なタイトル

チーム

個人

歴代監督

初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。

名前 国籍 任期 主なタイトル 備考
山崎芳樹 日本の旗 1938 - 1950 1943年から1946年まで休部
小畑実 日本の旗 1951 - 1963 全日本実業団:1956・1962
国体:1962
下村幸男 日本の旗 1964 - 1970 JSL:1965・1966・1967・1968・1970
天皇杯:1965・1967・1969
1969アジアクラブ選手権出場
大橋謙三 日本の旗 1971 - 1975 1971年日本代表ユース監督と兼務
松本育夫 日本の旗 1976 1976年日本代表ユース監督と兼務
小城得達 日本の旗 1977 - 1980
二村昭雄 日本の旗 1981 - 1983 ドイツの旗クラウツンコーチ1983年8月から9月
今西和男 日本の旗 1984 - 1987 オランダの旗オフトコーチ1984年から1987年
ハンス・オフト オランダの旗 1987 - 1988
今西和男 日本の旗 1988 - 1992 イングランドの旗ビルコーチ1988年から1991年

歴代選手

所属全選手ではなく、名前のわかっているものを記載している。Category:東洋工業サッカー部の選手も参照。太字国際Aマッチ出場選手。備考欄の「○」はJFA 公認S級コーチライセンス取得者。 ポジション欄の意味は以下の通り。

  • GK:ゴールキーパー
  • FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
  • HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
  • FW:フォワード
名前 国籍 ポジション 在籍 試合数 備考
山崎芳樹 日本の旗 1938 - 1950 監督兼任
銭村健次 日本の旗 FW 1948 -
小畑実 日本の旗 FW 1949 - 一時監督兼任
芳野統男 日本の旗 FB -
下村幸男 日本の旗 GK 1952 - 1961 メルボルンオリンピック出場
樽谷明 日本の旗 FW 1953 -
重松良典 日本の旗 FW 1954 -
小沢通宏 日本の旗 HB、FB 1955 - 1967 メルボルンオリンピック出場
1962年フットボーラーオブザイヤー
北島秀夫 日本の旗 HB 1955 -
田中雍和 日本の旗 FW -
大橋謙三 日本の旗 HB - 1967 田辺製薬から移籍
沼野博 日本の旗 HB 1956 -
石井義信 日本の旗 HB 1957 - 1968 藤和不動産へ移籍
小原勝 日本の旗 1957 -
大島治男 日本の旗 FW 1958 -
桑原弘之 日本の旗 FB 1960 - 1970
川西武彦 日本の旗 FW 1961 - 1966
船本幸路 日本の旗 GK 1961 - 1975
中村勤 日本の旗 FW 1962 - 1966 早稲田大学へ進学
丹羽洋介 日本の旗 FB 1963 - 1971
今西和男 日本の旗 FB、HB 1963 - 1969
岡光龍三 日本の旗 FW 1963 - 1970
松本育夫 日本の旗 FW 1964 - 1971 ○メキシコシティオリンピック出場
桑田隆幸 日本の旗 FW、HB 1965 - 1969
小城得達 日本の旗 FW、HB、FB 1965 - 1976 メキシコシティオリンピック出場
1965・1970年フットボーラーオブザイヤー
桑原楽之 日本の旗 FW 1965 - 1972 メキシコシティオリンピック出場
二村昭雄 日本の旗 HB 1966 -
吉田浩 日本の旗 HB 1966 -
大野毅 日本の旗 FB 1967 -
国枝強 日本の旗 FB 1967 -
谷本圀之 日本の旗 FW、HB 1968 -
川野淳次 日本の旗 HB、FB 1968 - 1976
佐伯一彦 日本の旗 HB 1968 -
小滝強 日本の旗 FB、CB 1968 -
小原秀男 日本の旗 FW、HB、FB 1969 - 1981
小滝春男 日本の旗 FB、SB 1971 - 1981
高田豊治 日本の旗 HB、CB 1971 - 1978
堀口照幸 日本の旗 HB 1971 - 1977
安原真一 日本の旗 FW 1971 - 1981
宮崎輝比呂 日本の旗 HB - 1981
古田篤良 日本の旗 HB、CB 1975 - 1984
野曽原芳彦 日本の旗 GK 1975 -
渡辺由一 日本の旗 HB 1977 -
山出実 日本の旗 FW - 1982
中野重富 日本の旗 FW - 1984
河内勝幸 日本の旗 HB 1978 -
宗像マルコス望 ブラジルの旗 1980 - 1982
高橋真一郎 日本の旗 FW 1980 - 1992
中村重和 日本の旗 SB、MF 1981 - 1989
猿沢茂 日本の旗 FW、MF 1982 - 1991
小林伸二 日本の旗 FW 1983 - 1990
今川正浩 日本の旗 FW 1983 -
木村孝洋 日本の旗 MF 1983 - 1988
信藤健仁 日本の旗 CB 1983 - 1990 ○旧名・克義、三菱に移籍
上原洋史 日本の旗 MF 1983 -
山田隆 日本の旗 SB 1983 -
松田浩 日本の旗 CB 1984 - 1992
望月一頼 日本の旗 GK 1984 - 1988
佐藤康之 日本の旗 SB、CB 1984 - 1992
織田秀和 日本の旗 MF 1984 -
ディド・ハーフナー オランダの旗 GK 1986 - 1988 ○読売へ移籍
島卓視 日本の旗 FW 1986 - 1992
横内昭展 日本の旗 MF 1986 - 1992
前川和也 日本の旗 GK 1986 - 1992
山西博文 日本の旗 SB、CB 1986 - 1992
クレック・ノーリー イングランドの旗 FW 1987 - 1988
ロン・ヤンス オランダの旗 MF 1987 - 1988
崔景植 大韓民国の旗 CB 1987 - 1988
森保一 日本の旗 MF 1987 - 1992
河村孝 日本の旗 FW、MF 1987 - 1991 横浜フリューゲルスに移籍
幸田将和 日本の旗 MF、SB 1988 - 1992
和泉茂徳 日本の旗 SB、CB 1988 - 1992 マツダSC東洋のみ
イアン・グリフィス イングランドの旗 FW 1989 - 1990
デヴィッド・ホジソン イングランドの旗 MF 1989 - 1990
アラン・アーバイン スコットランドの旗 FW 1989 - 1990
トニー・ヘンリー イングランドの旗 SB、MF 1989 - 1991
風間八宏 日本の旗 MF 1989 - 1992
平田英治 日本の旗 FW 1989 - 1992
河野和正 日本の旗 GK 1989 - 1992 マツダSC東洋のみ
片野坂知宏 日本の旗 SB 1990 - 1992 ○マツダSC東洋のみ
月岡利明 日本の旗 SB 1990 - 1992 マツダSC東洋のみ
ダニエル・カリッチマン アメリカ合衆国の旗 CB 1991 - 1992
ユリウス・ベーリック チェコスロバキアの旗 CB 1991 - 1992
ユーリー・カビル チェコスロバキアの旗 MF 1991 - 1992
上野展裕 日本の旗 MF 1991 - 1992 ○全日空から移籍
吉田安孝 日本の旗 CB 1991 - 1992 田辺製薬から移籍
亀田明広 日本の旗 FW 1991 - 1992 NTT関東から移籍、浦和レッドダイヤモンズへ移籍
高木琢也 日本の旗 FW 1991 - 1992 ○フジタから移籍
森山佳郎 日本の旗 SB 1991 - 1992
柳本啓成 日本の旗 SB 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ
笛真人 日本の旗 FW 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ
森秀昭 日本の旗 CB、SB 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ

脚注

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  1. ^ 創部からJSL初期ごろまでは市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町にある広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区皆実の広島大学附属高校グラウンドで行われた。
  2. ^ a b 年末年始を語る(1)まずは高校サッカー賀川浩の片言隻句)。
  3. ^ 月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。
  4. ^ 中国地方代表として。戦績は初戦敗退(1-7対東大LB)。ちなみに九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場した。
  5. ^ このときの決勝戦会場は、現在ではありえない事だが、広島国泰寺高校グラウンドで行われた。
  6. ^ 月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。その後サッカー教室として定期的に開かれるようになり、これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島の下部組織に受け継がれていく。
  7. ^ 近年、イビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた。viva! soccer.netを参照。
  8. ^ 第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3)。
  9. ^ 週刊サッカーマガジンベースボール・マガジン社、2008年9月2日号、58頁
  10. ^ 勝沢要『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』、テレハウス、1986年1月、102頁
  11. ^ 月刊サッカーマガジン1971年6月号や1972年06月01日号などより参照
  12. ^ JSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が、1970年前後に相次いで退団・引退したことで、チームの得点力がガタ落ちした。またDF陣も同様に相次いで引退したため攻撃のキーマンである小城得達をDFあるいは守備的なMFとして起用したことにより、さらに得点力が低下することとなった。
  13. ^ 当時のマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ日産を追走していたが、1973年のオイルショックの影響により経営状態が悪化。会社の業績悪化はサッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。
  14. ^ 理由の一つとして、この時代は広島東洋カープの「赤ヘル旋風」期で少年たちが野球を選んだことが挙げられる。
  15. ^ 今西曰く「他のチームと比べて初任給にかなり差があったのではないか」(下記参考資料・広島向上委員会内でのインタビューより)
  16. ^ 特にDF陣レギュラーは30歳手前の選手で固められていたため、世代交代の必要性に迫られていた。
  17. ^ 宗像マルコス望がまったくチームに馴染めなかったことも原因の一つ。
  18. ^ 1980年春のキャンプ時に五日市高校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった(1980年3月25日号サッカーマガジンより)。またこれはニュースとして中国新聞紙面で扱われた。
  19. ^ 監督は今西だが指導経験が全く無かった為、オフトが実質的には監督として指導していた。
  20. ^ オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めたという(出典:サッカーダイジェスト1987年4月号)。
  21. ^ 特に県工出身の金田喜稔木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。

関連項目

参考文献





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