村松藩
村松藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 09:18 UTC 版)
堀直政は主君・堀秀政の没後は嫡男・堀秀治に仕える。上杉景勝に代わり秀治が越後へ移された際、甘粕景持に替って三条城の城主となる。 直政の長男・直清は父から受け継いだ三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。ところが慶長15年(1610年)、昨年に幼君忠俊に訴えて追放した弟・直寄(堀直政の次男)が徳川家康に訴えたため直清は改易され、越後福島藩主で秀治の嫡男・堀忠俊も磐城平藩・鳥居忠政へお預けとなった。しかし、直寄自身も1万石減封で信濃飯山藩4万石に転封された(越後福嶋騒動)。 その後、堀直寄は長岡8万石から村上10万石(実高17万石とも)に転封となり、さらに3万石を加増される。加増分は直寄の次男・直時が分与され安田藩を立てる。村上藩は、直寄の長男・直次が寛永15年(1638年)に父に先立って死去した。翌年には父・直寄も亡くなり直次の長男でわずか4歳の直定が跡を継ぐことになったが、寛永19年(1642年)に夭折し、村上藩堀家(直政系嫡流)は断絶した。 堀直時は本家の村上藩が断絶・所領召し上げとなった後も、安田藩3万石の領有を認められた。本家の遺臣らにより村上の遺領相続を願い出たが、幕府からは認められなかった。寛永21年(1644年)5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えと城主格への昇進が行なわれて、安田陣屋から村松城に移したことから、正式な村松藩が始まった。
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村松藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 05:00 UTC 版)
村松藩では速水家が中心に心形刀流を指南していた他にも、永井家他多くの人たちが学んでいた。藩主の堀家も代々心形刀流を学んでいたが、第9代藩主・堀直央は奥山理想神伝流剣術を開いた。
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