むらまつ‐ともみ【村松友視】
村松友視
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村松 友視[注 1](むらまつ ともみ、1940年〈昭和15年〉4月10日 - )は、日本の作家、元編集者、エッセイスト。
注釈
- ^ “視”。「示」の右に「見」、数値文字参照:「
視
」。「視」の字に代用される場合あり。 - ^ そのため、戸籍上は上記の父方のおじたちと兄弟である。
- ^ その事情を知らない水上勉などは担当編集者だった村松について「彼は梢風の妾の子だ。かわいそうに」と同情していたという[3]。
- ^ 塙嘉彦が『海』4代目編集長となると編集部一同で、未亡人となった武田百合子邸を月1度訪問するのが恒例となった。また色川武大と二人で「武田百合子に小説を書かせる会」を結成した。
- ^ 自分の尊敬する4人の作家、吉行淳之介、野坂昭如、唐十郎の本名・大靏義英、後藤明生から1文字ずつもらったペンネームだった。
- ^ この小説の元原稿には「プロレスの試合の場面」が40枚も書かれていたが、後藤の示唆で削除した。
- ^ ただし「吉行番」の先輩編集者が多く、なかなか担当編集者になることができなかった。
- ^ 奇遇にも、吉行は若い頃に「永井龍男に似ている」と言われたことがあるという。
出典
- ^ 『私の父、私の母』中央公論社、1994年、197-201頁
- ^ “村松 友視 Tomomi Muramatsu”. 現代ビジネス. 講談社. 2023年5月26日閲覧。
- ^ 嵐山光三郎『昭和出版残侠伝』より
- ^ 「【話の肖像画】作家・村松友視(2)父の早世、祖父母に育てられ (1/2)」『産経ニュース』2016年8月16日付
- ^ a b c d e “村松 友視 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館. 兵庫県立美術館. 2023年5月26日閲覧。
- ^ 「【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (1/3)」『産経ニュース』2016年8月17日付
- ^ 「【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (2/3)」『産経ニュース』2016年8月17日付
- ^ 村松著の『ヤスケンの海』によれば、編集長との対立はしばしばで異動願いを出したこともある。そのため中央公論社は万が一のために、村松の穴埋め要員を探し、最終的に採用したのが先述の安原だった。
- ^ 「【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (3/3)」『産経ニュース』2016年8月17日付
- ^ 「作家・村松友視(1)プロレス本が思いがけず大ヒット (1/2)」『産経ニュース』2016年8月15日付
- ^ 前田日明は1988年に刊行した自著[要文献特定詳細情報]の中で『私味方です』を名著としている。
- ^ 「【話の肖像画】作家・村松友視(2)父の早世、祖父母に育てられ (2/2)」『産経ニュース』2016年8月16日付
- ^ 椎名はこの年(1980年)年末にストアーズ社を退職し、村松に先んじて専業作家となった。
- ^ 「椎名誠の仕事(聞き手:目黒考二) 『ジョン万作の逃亡』その1」『椎名誠 旅する文学館』
- ^ クイズダービー第685回、1989年4月15日放送分の3問目より[信頼性要検証]
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