本多忠純
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 15:41 UTC 版)
本多 忠純(ほんだ ただずみ)は、江戸時代前期の大名。本多正信の三男で、下野榎本藩の初代藩主となった。豪勇で知られた人物で、大坂の陣での戦功によって知行は2万8000石まで加増された。官位は従五位下・大隅守。
注釈
- ^ a b 通称「榎本大中寺」。栃木市大平町西山田に同名の「大中寺」があり、曹洞宗の「関三刹」の一つとして著名である。榎本大中寺は、戦国期に大中寺の継承争いが生じた際に榎本の地に創建されたものという。
- ^ 『藩翰譜』では、忠純は「天王寺より押し寄せ戦ひて」とある[5]。
- ^ なお、『藩史総覧』では加増の際に皆川藩に転封したと見なし、この時点で榎本藩が廃藩となったと記す[6]。
- ^ 『寛政譜』編纂時の本多政房家(本多犬千代の代で途絶えた榎本藩主家の名跡を継ぐ形で興された大身旗本家)からの呈譜には56歳とあるというが[1]、これに従えば天正4年(1576年)生まれとなり、次兄の本多政重より年上となる。
- ^ 同母弟に片桐貞晴(旗本となる)がいる。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.712。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十「片桐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1021。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十「片桐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1022。
- ^ a b c “市史編さんだより 創刊号”. 四街道市. 2023年8月27日閲覧。
- ^ 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』63/87コマ。
- ^ “榎本藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月27日閲覧。
- ^ “本多忠純”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年8月28日閲覧。
- ^ “栃木市 指定文化財一覧【考古資料】”. 栃木市. 2023年8月28日閲覧。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.713。
- ^ a b “小山評定の群像(62) パワハラ武将本多忠純の思わぬ最期”. 産経新聞. (2015年7月5日) 2023年8月27日閲覧。
- ^ 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』64/87コマ。
固有名詞の分類
- 本多忠純のページへのリンク