末の松山とは? わかりやすく解説

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すえ‐の‐まつやま〔すゑ‐〕【末の松山】

読み方:すえのまつやま

陸奥(みちのく)の古地名岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。[歌枕

「きみをおきてあだし心をわがもたば—浪もこえなむ」〈古今東歌


末の松山

作者石川淳

収載図書石川淳全集 第4巻
出版社筑摩書房
刊行年月1989.8


末の松山

作者沢田ふじ子

収載図書奈落公事宿事件書留帳 4
出版社広済堂出版
刊行年月1997.11

収載図書奈落公事宿事件書留帳 4
出版社幻冬舎
刊行年月2001.4
シリーズ名幻冬舎文庫


末の松山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/06 10:16 UTC 版)

座標: 北緯38度17分16秒 東経141度0分11.9秒 / 北緯38.28778度 東経141.003306度 / 38.28778; 141.003306


  1. ^ 永野榮助「末の松山」『宮城縣史蹟名勝天然紀念物調査』第1輯、大正12年(1923)、宮城縣史蹟名勝天然紀念物調査會、13~15頁
  2. ^ 島田良治「藤原興風」『国史大辞典』第12巻 吉川弘文館、1991年、183頁
  3. ^ 奥村恆哉『古今和歌集』新潮社<新潮日本古典集成19>、1978年[要ページ番号]
  4. ^ 金沢規雄「文学・多賀城と文学」『多賀城市史』第3巻、多賀城市史編纂委員会、1986年、190-420頁
  5. ^ 小島憲之・新井栄蔵校註『古今和歌集』岩波書店<新日本古典文学大系5>、1988年[要ページ番号]
  6. ^ 相原淳一「多賀城と貞観津波」『考古学雑誌』第101巻第1号、日本考古学会、2018年、1‐53頁
  7. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年1月9日). “【東日本大震災】歌枕「末の松山」周辺2寺院と周辺町内会が協定 震災時避難者の命つなぐ”. 産経ニュース. 2021年2月23日閲覧。
  8. ^ “震災10年…和歌に詠まれた「末の松山」と消えた災禍の記憶”. 読売新聞. (2021年3月10日). https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210308-OYT8T50014/ 2022年8月8日閲覧。 
  9. ^ 阿部幹男『東北の田村語り 奥浄瑠璃田村三代記考―生成と伝承―』三弥井書店、2004年、73-74頁
  10. ^ 八幡村八幡社別当の『真言宗末松山般若寺書出』(安永3年(1774年))では、利府加瀬村の八幡町はこの時の津波の避難民が作ったという伝承を記している。
  11. ^ 『利府村誌』(1963)では「大昔の大津波の時、加瀬の小林主膳の遠い遠い先祖の人が、加瀬の一本杉のあったあたりで、八幡村の八幡さまの御神体を泥から取り上げ、お祀りしていた。利府ではこの八幡さまを「流れ八幡」と呼び、多賀城では「泥八幡」と呼んでいる。八幡町の大昔の村民は、この「流れ八幡」さまを慕って多賀城の八幡から移って来たひとたちである。」とする。
  12. ^ 小野寺正人「宮城県の漂着神伝承について」『東北民俗』第7輯、東北民俗の会、9-15頁、1972年
  13. ^ 大槻文彦「多賀城多國府遺蹟」『考古学雑誌』第1巻第5号、日本考古学会、1911年、291-307頁
  14. ^ 『多賀城町誌』(1967)では、神社跡に「浮八幡」の跡があり、かつて大津波の際に、八幡の八幡社の御神体が、この辺りの立ち木に引っかかっていたのを、そのまま祀ったと伝えている。祭神は譽田分尊・武甕槌尊・応神天皇である。明治41年(1908)に奏社宮(現在の陸奥総社宮)に合祀された。
  15. ^ 『利府村誌』(1963)では「大昔の大津波の時、加瀬の小林主膳の遠い遠い先祖の人が、加瀬の一本杉のあったあたりで、八幡村の八幡さまの御神体を泥から取り上げ、お祀りしていた。利府ではこの八幡さまを「流れ八幡」と呼び、多賀城では「泥八幡」と呼んでいる。八幡町の大昔の村民は、この「流れ八幡」さまを慕って多賀城の八幡から移って来たひとたちである。」する。ちなみに、ここでいう八幡社は現在の利府町中央3丁目にある八幡社のことで、ご祭神は大鞆分命である。
  16. ^ 江戸時代以降の伝承をすべて慶長地震津波とする見解(J.F.モリス「「天童家文書」を読み解く」『天童家文書Ⅰ』多賀城市文化財調査報告書第113集、1-3頁、2013年)もある。建保(1213年 - 1218年)年中に、末の松山から宮内に遷宮した八幡社は、豊臣秀吉奥州仕置(1590年)によって伊澤(留守)氏は城を召し上げられ、八幡社の祠宇は荒壊し、村民がわずかに葺修するのみだった(『鹽松勝譜』:舟山、1823年)とし、留守氏に臣従していた八幡氏も家人に暇を出しており(「平姓八幡氏系図」)、慶長年中にはすでに八幡社は荒壊に瀕していたものとみられる。以上、相原淳一「多賀城と貞観津波」『考古学雑誌』第101巻第1号、日本考古学会、2018年、1‐53頁、
  17. ^ 猩々ヶ池の所在地は、ごく早い段階でわからなくなったらしく、昭和(戦前)の伝承(三塚栗川編1934『多賀城村郷土の伝説と史話』(謄写版―多賀城市立図書館蔵)山王尋常高等小学校)では、本郷の造り酒屋櫻木亦八の営む居酒屋から東方四丁余りの小池―八幡櫻木観音堂より東にあり、八坪ほどの小池に猩々の亡骸を捨てたとしている。
  18. ^ 砂金辰雄「末の松山に絡む伝承」『郷土の伝承』宮城県教育会、1931年、110-111頁
  19. ^ 吉川盛一「末の松山の伝説」『郷土の伝承』第2輯 宮城県教育会、1933年、64-65頁
  20. ^ 参考までに、若狭彦神社とともに若狭国一宮となっている若狭姫神社の祭神は「豊玉姫命」(『古事記』の豊玉昆売命。海神(わたつみ)の娘。竜宮に住まいする)である。
  21. ^ 多賀城政庁の東西北のほぼ正方位上に東宮(七ヶ浜町東宮浜 東宮神社)・西宮(仙台市宮城野区岩切 八坂神社境内志波彦神社)・北宮(利府町春日 春日神社境内北宮神社)が配されている。南宮社のみ多賀城政庁西側の砂押川川向いに立地している。南宮社の本来地は他の三社同様に、政庁南方の正方位上か。
  22. ^ 大場雄淵『奥州名所図会』(自筆稿本ー宮城県図書館所蔵)1829年以前
  23. ^ 『鹽竈社神籍』明治維新以前(古川左京『鹽竈神社史』國弊中社志波彦神社鹽竈神社社務所1930年に再録)
  24. ^ 三塚源五郎『多賀城村聚落の機構 地名の研究』(謄写版ー多賀城市立図書館所蔵)山王尋常高等小学校、1933年
  25. ^ 三塚源五郎「お山王さまと色の御前(宮城県多賀城村)『郷土の伝承』第2輯 宮城県教育会、1933年、9-11頁
  26. ^ 総合して、「伝承では、宇佐あるいは松島から末の松山に八幡宮を勧請したのは坂上田村麻呂である。田村麻呂が蝦夷の英雄阿弖流為を事実上、騙し討ちした記憶(保立道久2012『歴史の中の大地動乱―奈良・平安の地震と天皇』岩波新書1381)は東国の人々の心から容易に消え去ることはなかったであろう。伝承のとおり、貞観津波が末の松山の八幡宮を流出させているのであれば、「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ」、こうした歌が民謡のように広がり、歌い継がれたとしても決して不思議ではない。」(相原淳一「多賀城と貞観津波」『考古学雑誌』第101巻第1号、日本考古学会、2018年、1‐53頁)と評している。少なくとも『古今和歌集』編纂時点では、「末の松山」は陸奥国の「東歌」とその派生歌の歌題であり、「恋歌」に関わる歌枕とされるのはもっと後世になってからのことである。


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