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ありしま-いくま 【有島生馬】
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有島生馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/11 01:36 UTC 版)
有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年(明治15年)11月26日 - 1974年(昭和49年)9月15日)は、神奈川県横浜市出身の画家。有島武郎の弟、里見弴の兄。
号は雨東生、十月亭。妻の信子は原田熊雄の妹。甥には武郎の実子である俳優の森雅之がおり、1923年(大正12年)に武郎が心中した後は彼の親代わりとなって育てた。
志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島家の女中の恋人を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1946年(昭和24年))を書いて絶交。一人娘の有島暁子は呉茂一と離婚後、カトリックの道を歩んだ。
略歴
高等科まで学習院に学んだが病のため中退、東京外国語学校(現・東京外国語大学)イタリア語科卒業。藤島武二のもとで洋画を学んだ。1906年(明治39年)、欧州に留学。はじめローマに学び、その後パリへ移る。セザンヌ回顧展を見て感銘を受け、大きな影響を受けた。
- 1910年(明治43年) 帰国(2月)、白樺同人となる。
- 1911年(明治44年) 文展に入選。
- 1914年(大正3年) 二科会結成(創立会員)
- 1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。
- 1936年(昭和11年) 安井曽太郎らとともに一水会設立に参画。
- 1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる。
- 1958年(昭和33年) 日本美術展覧会(日展)常務理事に就任。
- 1964年(昭和39年) 文化功労者となる。
- 1974年(昭和49年) 91歳で死去。
著書
- 蝙蝠の如く 洛陽堂 1913年(大正2年) 白樺叢書
- 獸人 東京堂 1915年(大正4年)
- 南歐の日 新潮社 1916年(大正5年)
- 暴君へ 新潮社 1917年(大正6年)
- 葡萄圃の中 春陽堂 1918年(大正7年)
- 鏡中影 春陽堂 1919年(大正8年)
- 死ぬほど 春陽堂 1920年(大正9年)
- 美術の秋 叢文閣 1920年(大正9年)
- 回想のセザンヌ エミル・ベルナール(訳)叢文閣 1920年(大正9年) のち岩波文庫
- 嘘の果 常子の手紙 新潮社 1921年(大正10年)
- 片方の心 プラトン社 1924年(大正13年)
- セザンヌ アルス 1925年(大正14年)
- 海村 改造社 1927年(昭和2年)
- 現代日本文學全集 第27篇 有島武郎集・有島生馬集 改造社 1927年(昭和2年)
- 有島生馬全集 全3巻 改造社 1932年(昭和7年)-1933年(昭和8年)
- 有島生馬畫集 人物肖像篇 アトリヱ社 1932年(昭和7年)
- 東方への港 岡倉書房 1936年(昭和11年)
- 邪道 グラツィア・デレッダ(訳)日本出版社 1942年(昭和17年)
- 青春回想 随筆集 信濃青年社 1947年(昭和22年)
- 思い出の我 中央公論美術出版 1976年(昭和51年)
- 一つの予言 有島生馬芸術論集 形象社 1979年(昭和54年)
関連人物
固有名詞の分類
「有島生馬」の用例一覧
芥川龍之介 佐藤春夫氏 (青空文庫)
芥川龍之介 佐藤春夫氏 佐藤春夫氏 芥川龍之介 佐藤春夫は不幸にも常に僕を誤解してゐる。僕の「 有島生馬 君に与ふ」を書いた時、佐藤は僕にかう云つた。「君は...
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遺言 (青空文庫)
して僕がそとへ出てゐる間に、生田君の話も済み、有島生馬君の誰れだつたかの西洋の画家の話も済み、馬場君の近代社会文芸に就いての話も済んだ。そしてあと一人で、いよ/\最後の僕の番になつた。 其の...
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宮本百合子 ペンクラブのパリ大会 ——議題の抜粋についての感想—— (青空文庫)
下旬にパリで四日間に亙って開催された国際ペンクラブの第十五回大会に、有島生馬氏や井上勇氏、久米正雄氏などが出席したことが新聞に出ている。その議事日程の中、委員付託による四つの問題の検討がされている。(A)世界文学に今日のスタイルというべきものが存するか。(B)翻訳...
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