曽原
曽原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 19:46 UTC 版)
明治前期以前は児島郡曽原村と称していた。種松山の南東麓に位置し、南は福江、東は串田・林、西は広江に接する。郷内の北西端の地区である。 清田八幡神社の応永29年の修造棟札をはじめ、以後の棟札にも同社の所在を児林庄曽原村としている。また、『黄微古簡集』に永禄11年10月26日、熊野十二所権現(熊野神社)に出した毛利輝元・元就連署禁制に、神領3ヶ村の一つに曽原庄とある。 江戸時代は、相給地で、池田豊次郎(天城池田氏家臣)給地と浅野瀬兵衛給地、さらには蔵入地(支配所、天領)が領有した。『正保郷帳』では、石高277石余り。『備陽記』には、享保6年の記録として蔵入知行高村分帳では石高339石余りで、そのうち149石余りが池田豊治郎給地、67石余りが浅野瀬兵衛給地、残りは蔵入(天領)であったと記載され、前述の3領の合計で同年の田畑は20町3反余り、池13ヶ所、家数66軒、人口377人としている。 文化年間の『岡山藩領手鑑』では、石高277石余り、直高339石余りで、前述の3領の合計で田16町2反、畑4町2反余り、池・池樋・井戸各13ヶ所、家数70軒、人口321人、神社1社、寺1院(一等寺)、牛28頭、木挽3軒、紺屋・樋屋各1軒とある。 幕末には、周辺地域と同様に備前小倉織が隆盛を極め、当地から小倉商人が2人出ていることが『小倉問屋一条手続』に記されている。 エリア北東の山裾に真言宗御室派一等寺がある。『備陽国誌』では、古くは護国寺、のち有南院と称したとしている。また、『撮要録』に収められた延宝2年の寺社員数帳には、新熊野山福聚寺有南院とある。同寺は、江戸時代に南隣の福江(13石5斗)を領有した。享保3年に現在の寺名に改めたとされる。
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