斉藤巻石とは? わかりやすく解説

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斉藤巻石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/07 02:48 UTC 版)

斉藤 巻石[注釈 1](さいとう けんせき、寛政10年(1798年[1] - 明治7年(1874年5月)は、江戸時代後期の南画家・大網元。名は源作[1]に巻石・南乙・挙石・白湾漁長・兎山清農・大洋庵主人・拱寿庵主など[1]上総国山辺郡四天木村(現・千葉県大網白里市)の生まれ。

略歴

九十九里浜の大網元・斉藤四郎右衛門の次男として生まれる[1]。当時、漁が盛んで多くは干鰯に加工され、関西方面で農産物の肥料として需要が高かった[1]。このため大網元・斉藤家には巨万の富がもたらされていた[1]

14歳の時に一宮の中村家の養子となる[1]。このときの様子は「白馬銀鞍に跨がり。供の物数百人を従えた行列」と語り継がれるほどだった[1]。しかし、兄が早世したため、養家を辞して実家の家督を継ぐ[1]。兄の遺児滄海の養父となり、28歳で滄海に家督を譲り隠居する[1]。隠居後は本家のある四天木宮脇から離れた海岸に「大洋庵」を建て書画三昧に暮らす[1]

当時、九十九里浜には多くの文人墨客が遊歴しており、巻石の大洋庵にも梁川星巌紅蘭夫妻が滞在したほか[1]椿椿山高久靄厓福田半香高隆古岡本秋暉山本梅逸木下逸雲瀧和亭・栗本鴻堂など著名な画人が訪れた[1]

天保13年(1842年)44歳の時に足利を遊歴し[1]、その足で椿椿山に入門[1]。64歳から2年あまり越後で過ごし[1]、一時は上野付近に家を構えたが[1]、すぐに四天木村に戻る[1]。文久2年(1862年)、拱寿庵と群蛙亭屋を築き[1]、自らを遊歴人と称して諸国を遊歴しつつ文雅に暮らした[1]

明治7年(1874年)5月、書状「書置之事」を遺して死去[1]。享年76歳[1]

瀧和亭が描いた巻石唯一の肖像画は関東大震災で焼失した[1]

作品

参考文献

  • 図録「町史を彩る巨匠たち」大網白里町教育委員会 平成12年(2000年)

脚注

注釈

  1. ^ 斎藤拳石と記述された文献があるが、巻石を読み誤ったためと思われる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 大網白里市を知る 町史を彩る巨匠たち|土豪の網元画家 斎藤巻石| 大網白里市/大網白里市デジタル博物館”. adeac.jp. TRC-ADEAC株式会社. 2022年10月21日閲覧。



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