斎藤十一
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斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち[1]、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。
注釈
- ^ デンマンの名は、占領軍のパイロットだった米国人将校の名前が由来で、斎藤の趣味だったクラシックレコードを海外から安く仕入れてくれる友人だった[2]。
- ^ ただしヤン・デンマン名で執筆していたのは斎藤一人でなく、のちの『FOCUS』編集長の田島一昌も担当していたと言われる[4]。また、平岡正明によるとヤン・デンマンは2人組で「刑事部屋のヤニくささと岡っ引き的な品性のいやなやつらだった」だったという[5]。なお、1962年に大泉書店から発行されたヤン・デンマンの書籍『東京情報』の巻末に週刊新潮編集部名義で掲載された「あとがき」によると「種をあかせば、このデンマン氏の脳ミソは複数の人のそれででき上っている。そして、連載が二年余にわたっている関係上、この脳ミソの種類は何度も入れかわることになった。」(原文ママ)とある[6]。その後『週刊新潮』では、2013年1月からやはりヤン・デンマン名義でコラム「東京情報」が再開され[7]、2018年4月まで続いた。
- ^ ひとのみち教団は戦後PL教団として再興。またこの事件を冤罪と見る説もある。
- ^ 斎藤自身はTBS番組『ブロードキャスター』のインタビューの中で「知らないねえ。そんなことは」「それは言ったかもしれないね」と言を左右にしている[23]。
出典
- ^ 日外アソシエーツ『人名よみかた辞典:名の部』(1994年)p.94などでは「とういち」となっている。
- ^ 『編集者 齋藤十一』p.289
- ^ 亀井淳『「週刊新潮」の内幕 元編集部次長の証言』(第三文明社、1983年)p.12
- ^ 岡留安則「『フォーカス』の読み方」『『フォーカス』の内幕』岡留安則編著、KKベストブック、1984年、p.156
- ^ 平岡正明『人之初』p.175、彩流社、2012年
- ^ ヤン・デンマン『東京情報』大泉書店、1962年、252頁。NDLJP:3013185/130
- ^ 週刊新潮 2013年1月3・10日号 新潮社 2019年2月22日閲覧。
- ^ a b 佐野眞一『人を覗にいく』
- ^ 『新潮』1963年8月号
- ^ 佐野眞一『誰が「本」を殺すのか』プレジデント社、2001年、p.306
- ^ 高橋呉郎『週刊誌風雲録』文春新書、2006年、p.90
- ^ 斎藤勲『さらばフォーカス! アンカーライターが見た興亡の20年』飛鳥新社、2001年、p.67
- ^ 月刊『潮』1977年5月号
- ^ 吉村昭『私の文学漂流』p.192(新潮社、1992年)
- ^ 新田次郎『小説に書けなかった自伝』(新潮社、1976年)
- ^ 筒井康隆『みだれ撃ち瀆書ノート』(集英社、1979年)
- ^ 吉行淳之介『私の文学放浪』
- ^ a b 校條剛『ザ・流行作家』p.113(講談社、2013年)
- ^ 佐藤愛子『死ぬための生き方』海竜社、1993年、pp.194-196
- ^ 『編集者 齋藤十一』
- ^ 『車谷長吉全集』第2巻423頁「贋世捨人」
- ^ 櫻井秀勲『戦後名編集者列伝』(編書房、2003年)
- ^ 『編集者 齋藤十一』p.301-302
- ^ 亀井淳『反人権雑誌の読み方──体験的「週刊新潮」批判』(第三文明社、1996年)
- ^ 亀井淳「『フォーカス』蔭の黒幕の素顔」『『フォーカス』の内幕』岡留安則編著、KKベストブック、1984年、p.111
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