敦賀西町の綱引きとは? わかりやすく解説

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敦賀西町の綱引き

名称: 敦賀西町の綱引き
ふりがな つるがにしまちのつなひき
種別1: 風俗習慣
保護団体名: 夷子大黒綱引保存会
指定年月日 1986.01.14(昭和61.01.14)
都道府県(列記): 福井県
市区町村(列記): 敦賀市相生町西町通
代表都道府県 福井県
備考 1月15日
解説文: 綱引き競技は、元来庶民の間に根ざす信仰から発生した行事で、生業社会構成世界観など相違から複雑な様相呈して行われてきたものの、その根底には生業人生などに対す願いこめられていた。
 この綱引き行事は、石塚資元(安永七年一七七八〉~嘉永三年一八五〇〉)の著『敦賀志』中に見え京都に近い日本海有数港町として栄えた敦賀伝承されてきたもので、魚市場雑穀類などの商いで賑う西町(現相生町西町通り)で行われてきた。
 現在では、前日十四日引き綱をうち、長さ約五〇メートル中心部太さ直径約二五センチメートル仕上げる。十五日の午前中に道路脇にやぐらを組み通り面した北側に、東西延ばしたままに引き綱軒高吊り渡しておく。これに多くの細い綱を取り付けたり中心部より東側部分には、タイ・タコ・エビなどの魚類を形どった飾りものを、また、西側部分には打ち出の小槌米俵土蔵の鍵などを形どった飾りものを吊り下げる。これらと並行して当番の家でエビス大黒祀る祭壇しつらえ、その門前脇にサギチョウ称する枝葉のついた竹を立て、これに御幣日の丸描いた扇子などを取り付けて飾る。
 綱引き先立って当番の家で祭事があり、これが終わってから、年男二人が、エビス大黒扮して仮面衣装をつけ、保存会人々隨行してエビス勝った大黒勝ったエーエーエー」と呼びながら町内一巡する一行当番の家にさしかかった折を見計らってサギチョウタオシ(左義長倒し)がなされ、ほぼ町内中央さしかかると、軒下吊り下げられていた引き綱高く持ち上げられ、さっと路上おろされる。その瞬間待機していた人々が東のエビス方と西の大黒方に分かれて綱の引き合い開始する往時綱引きヒキアイ(挽合)と呼ばれ漁民海産物に関する商人は東のエビス方に農民農産物に関する商人は西の大黒方に分かれて引き合った伝えられ勝負一回きりで、エビス方が勝てば豊漁恵まれ大黒方が勝てば豊作になると占ったこうした伝承は、現在なお継承されている。

敦賀西町の綱引き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 14:44 UTC 版)

夷子大黒の町内一巡

敦賀西町の綱引き(つるがにしまちのつなひき)は、福井県敦賀市相生町西町通り(北緯35度39分17秒 東経136度04分03秒 / 北緯35.6546度 東経136.0674度 / 35.6546; 136.0674 (西町通り))にて毎年1月に行なわれる正月綱引き神事夷子方と大黒方とに分かれた人々が大綱を引き合い、夷子方が勝てば豊漁、大黒方が勝てば豊作、とする年占の行事である。一般には、「夷子大黒綱引き」(えびすだいこくつなひき)と呼ばれ、昭和61年(1986年1月14日に国の重要無形民俗文化財に指定されている[1]

概要

敦賀西町の綱引きは年占の行事であるとともに、その年の豊漁豊作を祈願する予祝行事でもある[2]。もともと小正月1月15日に行われていたが、休日の改正後は1月の第3日曜日に実施されている[3]

綱引きの大綱は、行事開催までに稲藁約360把を使用して[4]、引き綱をうち、長さ50m、中心部の直径25cmに仕上げられる[1]。当日の午前中には、西町通り北側の道路端にやぐらを組み、軒下に吊り下げられる[1]。この大綱には、夷子に因んだ海老腰蓑など、大黒に因んだ打出の小槌米俵土蔵の鍵などを形どった藁細工の飾りもの(「やくもの」と呼ばれる)が吊り下げられる[1][3]。なお、綱引き前には取り外される[3]

綱引き行事に先立って、西町通りの夷子大黒会館で神事が行われ、早朝、会館内の祭壇に夷子と大黒の面形、衣裳、道具類(打出の小槌、釣り竿と鯛)が供えられる[4]。つぎに男性二人(厄年[4]、年男[1] の方が選ばれる)が、面形と衣装などを身につけ夷子と大黒に扮し、「夷子勝った、大黒勝った、えいやー、えいやー、えいやー」と紋付袴の役員が掛け声をかける中、町内を一巡する[1][3]

会館前には、枝葉のついた青竹に御幣や日の丸を描いた扇子などの縁起物を取り付けて飾った左義長が立てられており、夷子大黒の一行が会館に戻ってきたときに竹が倒され、待ち構えた人々が縁起物を取り合う左義長倒しも行われる[1][3][4]

西町通りに見物客が集まる中、太鼓の音を合図に、軒下に吊り下げられていた大綱が路上に降ろされ、見物客を含め待っていた人々が東の夷子方と西の大黒方に分かれて、綱引きを開始する[3]。昔は挽合(ひきあい)と呼ばれ、漁師や海産物を扱う商人は夷子方に、農民や農産物を扱う商人は大黒方に分かれて引き合ったという[1]。勝負は1回のみで、夷子方が勝てば豊漁、大黒方が勝てば豊作という占いが出て、終了する[3][5]。綱引き後、大綱の藁は縁起物として持ち帰る光景もみられる[2]

歴史

現在、夷子と大黒の面や小道具は新調されているが、古くから伝わる夷子の面には慶長2年(1597年)の銘があり、また大黒の打ち出の小槌の柄にも延宝7年(1679年)の銘があることから、およそ400年前には綱引き行事が成立していたとみられる[1][3][4]

また、氣比社の神職を務めた石塚資元(安永7年(1778年) - 嘉永3年(1850年))が著した敦賀の地誌『敦賀志』にも、この綱引き行事が紹介されており[1][3]、その衣装については「唐織、蝦夷錦(えぞにしき)茶色の唐繻子(からしゅす)に鳳凰の縫、何れも美々しく又古雅なり」と記され、豪華なものであったことが窺える。

北前船の発達した江戸時代、敦賀は海運の重要港として栄え[1]、西町には海産・農産物の市場が開かれた[2][3]。このような状況下、市場に集う農民、漁師、商人の中から綱引き行事が発生したと考えられている[3]

行事継承の取り組み

従来は西町の「夷子大黒綱引保存会」が綱引き行事の運営を行なってきたが、高齢化、継承者不足、資金不足などから、平成29年(2017年)は開催が中止となった。そのような中、伝統行事を維持継続していく仕組みづくりが協議され、敦賀商工会議所など8団体で構成する「敦賀西町の綱引き伝承協議会」が発足、「保存会」の指導を受けつつ、運営を行うこととなり、平成30年(2018年)から綱引き行事が再開された[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 敦賀西町の綱引き - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ a b c 地域文化資産 「国指定重要無形民俗文化財 年占に福を呼ぶ 敦賀西町の綱引き」、2019年6月30日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k 敦賀市 みんなの文化財 「敦賀西町の綱引き(1)(2)」、2019年6月30日閲覧
  4. ^ a b c d e 福井県、福井の文化財 「敦賀西町の綱引き」、2019年2月12日閲覧
  5. ^ a b 広報つるが1月号(2018年)「敦賀西町の綱引きが復活」、2019年2月12日閲覧


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