手取川の戦い
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手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破したとされる合戦である。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『長家家譜』
- ^ 『伊達家文書』『建勲神社文書』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『信長公記』
- ^ a b c d 『歴代古案』
- ^ 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。
- ^ 井上鋭夫 『日本の武将・上杉謙信』人物往来社、1966年。
- ^ a b c d 矢田俊文 『上杉謙信-政虎一世中忘失すべからず候-』ミネルヴァ書房、2005年。
- ^ 布施秀治『上杉謙信傳』(謙信文庫、 1917年)や井上一次『上杉謙信』(兵書出版社、 1928年)を始めとし、現在も多くの関連史書で紹介されている。
- ^ 『福井県史』
- ^ a b 井上鋭夫 『一向一揆の研究』吉川弘文館、2013年。
- ^ 『石川県立図書館解説』引用
- 1 手取川の戦いとは
- 2 手取川の戦いの概要
- 3 合戦の影響
- 4 戦いの規模に関する議論
- 5 脚注
手取川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。総大将柴田勝家の下、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。 織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千人は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。
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