手取川の戦いとは? わかりやすく解説

手取川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 16:21 UTC 版)

手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、天正5年9月23日1577年11月3日)に加賀国手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破したとされる合戦である。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『長家家譜』
  2. ^ 『伊達家文書』『建勲神社文書』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『信長公記』
  4. ^ a b c d 歴代古案
  5. ^ 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。 
  6. ^ 井上鋭夫 『日本の武将・上杉謙信』人物往来社、1966年。 
  7. ^ a b c d 矢田俊文 『上杉謙信-政虎一世中忘失すべからず候-』ミネルヴァ書房、2005年。 
  8. ^ 布施秀治『上杉謙信傳』(謙信文庫、 1917年)や井上一次『上杉謙信』(兵書出版社、 1928年)を始めとし、現在も多くの関連史書で紹介されている。
  9. ^ 『福井県史』
  10. ^ a b 井上鋭夫 『一向一揆の研究』吉川弘文館、2013年。 
  11. ^ 『石川県立図書館解説』引用


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手取川の戦い

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上杉謙信」の記事における「手取川の戦い」の解説

謙信七尾城攻めていた天正5年1577年)、長続連援軍要請受けていた信長は、七尾城救援する軍勢派遣決定謙信との戦い踏み切る総大将柴田勝家の下、羽柴秀吉滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政ら3万余大軍は、8月越前北ノ庄城結集同月8日には七尾城向けて越前国発ち加賀国入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将勝家意見合わず自軍引き上げてしまうなど、足並み乱れ生じていた。9月18日勝家率い織田軍は手取川渡河水島に陣を張ったが、既に七尾城陥落していることすら認知していなかった。 織田軍が手取川越えて加賀北部侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万大軍率いて一気南下加賀国入って河北郡石川郡をたちまちのうちに制圧し松任城にまで進出した9月23日、ようやく織田軍は七尾城陥落を知る。さらに謙信率い上杉軍目と鼻の先松任城着陣しているとの急報入り形勢不利を悟った勝家撤退開始。それに対して謙信率い上杉軍本隊の8千人23日夜、手取川渡河手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。

※この「手取川の戦い」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「手取川の戦い」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。

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