松平光重 (戸田松平家)とは? わかりやすく解説

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松平光重 (戸田松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 02:40 UTC 版)

 
松平光重
時代 江戸時代前期
生誕 元和8年(1622年
死没 寛文8年7月30日1668年9月6日
改名 孫四郎(幼名)、光重
別名 戸田光重
墓所 岐阜県本巣市郡府の智勝院
官位 従五位下丹波守
幕府 江戸幕府大坂城代
主君 徳川家光家綱
播磨明石藩主→美濃加納藩
氏族 戸田松平家
父母 父:松平忠光、母:菅谷氏
養父:松平庸直
兄弟 光重二の丸殿
正室:戸田氏鉄の養女
側室:栗山氏
寧、光永戸田光正、冨、戸田光直
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松平 光重(まつだいら みつしげ)は、江戸時代前期の大名播磨国明石藩の第2代藩主、美濃国加納藩の初代藩主。戸田氏の嫡流にあたる戸田宗家(仁連木戸田家)18代当主。戸田松平家3代。戸田松平家初代・松平康長の嫡男であった松平忠光の長男。

生涯

寛永11年(1634年)6月、明石藩主であった叔父の庸直(戸田松平家2代)が嗣子なく死去した。改易となるところであったが、祖父の康長は将軍家光に幼少時から仕え、勲功も多かったことから、光重に家督の相続が許され、遺領を与えられた。同16年(1639年)、明石より転じて美濃国加納城に入り、加納1万石を合わせて7万石となった。明暦2年(1656年)、大坂城代となり、万治元年(1658年)まで務めた。同3年(1660年)、再び大坂城代を務め、寛文元年(1661年)閏8月に罷め、同8年(1668年)7月晦日に没した。享年47。

系譜

父母

正室

側室

  • 厚見氏
  • 栗山氏
  • 上原氏
  • 尾花氏

子女

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 光永の相続時に5千石の分知を受け、交代寄合文殊戸田家となる。
  2. ^ 光永の相続時に5千石の分知を受け、交代寄合北方戸田家となる。子の光言の跡を、本家の松平光煕の四男戸田光清が相続し、文殊戸田家の娘(光正の孫)を室に迎えた。光清の孫の松平光行は本家の養嗣子となった。



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