恒仁親王とは? わかりやすく解説

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亀山天皇

後嵯峨天皇第3皇子で、母は西園寺実氏の娘キツ子。
同母兄の後深草天皇皇太子となり、1259年に即位。
1268年(文永五年)に高麗から使者来て蒙古皇帝フビライハーンからの国書大宰府提出した
その国書幕府朝廷奏上したが朝廷返書出さないことに決定した
この後幕府西国の御家人らに警戒呼びかけた。
朝廷諸国寺社に対して敵国降伏」の祈祷を行うよう命じた
この後日本国朝野をあげて「敵国降伏」の祈願をすることになる。
しかし、ついに1274年(文永11年)10月蒙古大軍襲来(文永の役)した。
いずれも日本軍との戦闘方式異なるなど、日本軍劣勢であった
国難至る」の報は全国もたらされた。
その功があってか蒙古の兵は撤兵した。
一方天皇家では、1272年後嵯峨上皇没すると兄後深草上皇置いて鎌倉幕府裁定により亀山天皇がいわゆる治天の君」となり天皇親政行った
1274年に亀山天皇の第2皇子世仁親王後宇多天皇)に譲位した
しかし、後深草上皇幕府積極的に働きかけ1275年後深草上皇の第2皇子熙仁親王伏見天皇)を皇太子立てた
この後1287年伏見天皇即位して皇位が「持明院統」に移り優勢になると、亀山上皇出家した
90代天皇
天皇名亀山天皇
読み方かめやまてんのう
名・諱等恒仁親王
読み方つねひとしんのう
時代区分中世
天皇在位1259年から1274年
生年1249
没年1305
後嵯峨天皇
大宮院キッ子
兄弟宗尊親王久仁親王
配偶者洞院キッ子
皇子女世仁親王
即位宮平安京
天皇陵龜山
所在地京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町


亀山天皇

(恒仁親王 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/06 23:59 UTC 版)

亀山天皇(かめやまてんのう、1249年7月9日建長元年5月27日〉- 1305年10月4日嘉元3年9月15日[1])は、日本の第90代天皇(在位:1260年1月9日正元元年11月26日〉- 1274年3月6日文永11年1月26日〉)。恒仁(つねひと)。


  1. ^ 亀山天皇』 - コトバンク
  2. ^ 加藤隆久監修『熊野大神―蘇りの聖地と神々のちから―』(戎光祥出版、2008年) p.122
  3. ^ 豊永聡美「大覚寺統の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P76-97
  4. ^ a b c 亀田俊和 『征夷大将軍・護良親王』戎光祥出版〈シリーズ・実像に迫る 007〉、2017年、12–14頁。ISBN 978-4-86403-239-1 


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