性善説
性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は本来善であるとする考え方を指す言葉である。この考え方は、特に中国の儒教思想において重要な位置を占めている。性善説は、人間が生まれながらにして善良な性質を持っているとし、その善良な性質が社会的な環境や教育によって変質すると主張する。この考え方は、教育の重要性を強調する一方で、社会の不正や不平等を批判する根拠ともなる。性善説と対立する考え方には性悪説があり、これは人間の本性は本来悪であるとする考え方である。性善説と性悪説は、人間の本性や倫理、道徳についての議論において重要な視点を提供する。
性善説
読み方:せいぜんせつ
「性善説」とは、「人間には生まれつき善の性質が備わっている」という考え方のことである。古代中国の思想家・孟子が唱えた説として知られる。荀子が唱えた「性悪説」と対比される。
「性善説」は通俗的には「人はみな本質的に善人であるという前提のもとに相手を信じる」「はなから相手を疑うようなことをしない」といった意味合いで扱われることも多い。これは孟子の唱えた本来の「性善説」とはやや趣旨が異なる。
孟子が説いた「性善説」は、人間は生まれながらにして善の心を持っているが、放っておくと悪になる可能性があるため、善人になるためには努力を惜しんではいけないという主旨の考え方である。要するに「誰でも立派な人間になれるが、そうなるには努力が肝要だ」ということである。
今日の通俗的な解釈では、「性善説」は「人は本来善人だから信用するべき」くらいの意味合いで捉えられることがままある。たとえば、「相手が不正を行わないと信じて取引する」ような態度を「性善説に基づいて契約する」のように表現することがある。このような表現における「性善説」は、少なくとも孟子の説いた「性善説」とは別物である。
ビジネスにおける「性善説」は、「双方ともに誠意を持って対応すれば、手違いか勘違いでもない限り相手は不正などしない」というような考え方である。こうした考え方は美しいかもしれないが、現代では通用しにくくなっている。場合によっては「本来必要な不正対策を講じていない」というネガティブな態度とも捉えられかねない。
荀子は、人間の本質は悪であり、善は後天的に身につけつものであるとした。つまり、人はそもそも悪に傾きやすく、悪を克服するために努力を要する(努力すれば善人になれる)ということである。
「性善説」と「性悪説」の違いは、人が先天的に持っている性質が「善」であるか「悪」であるか、という点である。ただし「性悪説」を唱えた荀子も、人は悪を克服して善人となるために努力をするべきと説いており、最終的な目標は孟子も荀子も同じところを見据えている。
なお、荀子の「性悪説」における「悪」とは、「人間は弱い存在であって煩悩や快楽に流されやすい」といった「欠点」に近い意味合いの言葉である。人の本性は凶悪な暴徒であるというようなことを言っているわけではない。
「性善説」とは、「人間には生まれつき善の性質が備わっている」という考え方のことである。古代中国の思想家・孟子が唱えた説として知られる。荀子が唱えた「性悪説」と対比される。
「性善説」は通俗的には「人はみな本質的に善人であるという前提のもとに相手を信じる」「はなから相手を疑うようなことをしない」といった意味合いで扱われることも多い。これは孟子の唱えた本来の「性善説」とはやや趣旨が異なる。
「性善説」の基本的な意味
孟子による「性善説」は、人間は先天的に「仁」や「義」といった善性を有しており、これを磨いてゆけば誰でも聖人になれる可能性を秘めている、といった考え方である。人が悪に傾くとすれば、それは本来的な性質ではなく、後天的に悪に染まるのだという。孟子が説いた「性善説」は、人間は生まれながらにして善の心を持っているが、放っておくと悪になる可能性があるため、善人になるためには努力を惜しんではいけないという主旨の考え方である。要するに「誰でも立派な人間になれるが、そうなるには努力が肝要だ」ということである。
今日の通俗的な解釈では、「性善説」は「人は本来善人だから信用するべき」くらいの意味合いで捉えられることがままある。たとえば、「相手が不正を行わないと信じて取引する」ような態度を「性善説に基づいて契約する」のように表現することがある。このような表現における「性善説」は、少なくとも孟子の説いた「性善説」とは別物である。
ビジネスにおける「性善説」は、「双方ともに誠意を持って対応すれば、手違いか勘違いでもない限り相手は不正などしない」というような考え方である。こうした考え方は美しいかもしれないが、現代では通用しにくくなっている。場合によっては「本来必要な不正対策を講じていない」というネガティブな態度とも捉えられかねない。
「性善説」の語源・由来
「性善説」の語源は、思想家・孟子の言動や逸話をまとめた書物「孟子」の中に見出される「性善」という言葉に由来すると考えられる。「孟子」の中には「性善説」という言葉そのものは見えないが、「告子上」編における告子との問答のくだりなどに「性善」の語が見える。「性善説」と「性悪説」の違い
「性悪説」は、「人間の本性は善ではなく悪である」とする考え方のことである。孟子とほぼ同時代の中国の思想家・荀子が、孟子の性善説に反対して提唱したとされる。荀子は、人間の本質は悪であり、善は後天的に身につけつものであるとした。つまり、人はそもそも悪に傾きやすく、悪を克服するために努力を要する(努力すれば善人になれる)ということである。
「性善説」と「性悪説」の違いは、人が先天的に持っている性質が「善」であるか「悪」であるか、という点である。ただし「性悪説」を唱えた荀子も、人は悪を克服して善人となるために努力をするべきと説いており、最終的な目標は孟子も荀子も同じところを見据えている。
なお、荀子の「性悪説」における「悪」とは、「人間は弱い存在であって煩悩や快楽に流されやすい」といった「欠点」に近い意味合いの言葉である。人の本性は凶悪な暴徒であるというようなことを言っているわけではない。
せいぜんせつ 【性善説】
性善説と性悪説
(性善説 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 06:03 UTC 版)
性善説(せいぜんせつ)と性悪説(せいあくせつ)は、「人はみな生まれつき善の性質をもつ」とする説と「悪の性質をもつ」とする説。
注釈
- ^ 「性」は類義語の「情」との使い分けが曖昧だったことも問題だった[12]。
- ^ 「性相近也、習相遠也」は、孔子が性を語った唯一の言葉として伝わる[18]。『論語』公冶長篇では「孔子は性や天道についてあまり語らなかった」と子貢が伝えている[19][20]。言い換えれば、当時は性や天道について語るのが一般的だった[19][20]。
- ^ 戦争の原因は人の性にあるとし、戦争を正当化する[23]。
- ^ 孟子は教育に関して、学校(庠序)の設立を王道政治の基本として説いた[29]。孟子は「悪の起源」を明確にしなかったが、後述の朱熹はこれを明確にするため、性を「本然の性」と「気質の性」に分け、後者によって悪を説明した[30]。
- ^ 孟子の性善説は、『孟子』告子上篇を中心に梁恵王上篇など複数の篇から読み取れる。『孟子外書』には「性善篇」が伝わるが、後世の仮託とされる[31]。
- ^ ここでいう「偽」は荀子の思想用語であり、「にせもの」や「偽善」の意味合いは無い[38]。「偽」を「作為」とするのは『荀子』楊倞注による[38]。
- ^ 荀子の性悪説は、『荀子』性悪篇を中心に正名篇など複数の篇から読み取れる。『荀子』勧学篇に由来する成語「出藍」「青は藍より出でて藍より青し」も、本来の文脈は、後天的作為の重要性を主張するものだった[39]。『荀子』非十二子篇では、孟子と子思の「五行説」に対しても非難している[40]。
- ^ 『荀子』本文の表現に即して言えば、「最初の聖人はどのように礼を作ったのか[41]」。
- ^ 「韓非は性悪説の継承者である」という説は、古くは晋代の仲長敖『覈性賦』(『芸文類聚』所引)に見られる[45]。
- ^ 「韓非が李斯とともに荀子に師事した」ということ自体が司馬遷の創作である、とする説もある(貝塚茂樹らの説)[47][48]。
- ^ 彼らの著作は漢代当時は存在したが現代では佚書となっている[49]。『漢書』芸文志にはその題名が記録されている[49]。いずれも馬国翰の輯佚がある[49]。
- ^ 例えば、玄学では郭象の性説、道教では「道性」や内丹説の性説、中国仏教では「仏性」などの「性」や「天台性悪説」が挙げられる[14]。
- ^ 明の朱子学者・薛敬軒は『読書録』『読書続録』で性善説を掘り下げた[63]。
- ^ 結論は「引き分け」とされる[86]。
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[続きの解説]
「性善説と性悪説」の続きの解説一覧
- 1 性善説と性悪説とは
- 2 性善説と性悪説の概要
- 3 解説
- 4 関連項目
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