徳川家霊廟
徳川家霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:40 UTC 版)
詳細は「徳川家霊廟」を参照 増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。 第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧・国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったが、1945年(昭和20年)に2度の空襲があり3月10日に北廟68棟が被災、続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失した。2021年(令和3年)現在は台徳院霊廟の門4棟、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、ならびに文昭院・有章院等の宝塔8基(後述)を残すのみである。 焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。 台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内) 台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市のユネスコ村(現・狭山不動尊)に移築されている) 有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られており、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しかったが、平成の大改修で2015年(平成27年)より約3年の期間をかけて大規模な保存修理工事を行われた。 これらの霊廟に祀られていた遺体は、1958年(昭和33年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。徳川家墓所は増上寺安国殿の裏手に移転している。同墓所の入口の門(銅造)は、もとは文昭院霊廟の奥院の中門だったもの。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。秀忠夫人の旧・崇源院霊牌所の一部が正保4年(1647年)に鎌倉建長寺に建替えのため移築され、現存する。 増上寺に隣接する芝東照宮は、元は家康を祀る増上寺安国殿であったが、神仏分離令の折に独立し神社化された。安国殿は増上寺の中で有力な支院で寺は反対したが、独立を阻止できなかった。 改葬後の増上寺徳川家墓所に立つ宝塔と被葬者は下記の通り。 旧・崇源院宝塔(石造) - 第二代将軍秀忠(台徳院)、同夫人(崇源院)の墓塔。台徳院宝塔は戦災で焼失したため、元の崇源院宝塔に夫妻が合祀されている。墓所内、入口から見て右列のもっとも奥にある。 旧・文昭院宝塔(銅造) - 第六代家宣(文昭院)、同夫人(天英院)の墓塔。墓所内、左列のもっとも奥にある。 有章院宝塔(石造) - 第七代家継(有章院)の墓塔。墓所内、右列の秀忠夫妻墓の手前にある。 惇徳院宝塔(石造) - 第九代家重(惇徳院)の墓塔。墓所内、右列の家継墓の手前にある。 慎徳院宝塔(石造) - 第十二代家慶(慎徳院)の墓塔。墓所内、右列のもっとも手前にある。 昭徳院宝塔(石造) - 第十四代家茂(昭徳院)の墓塔。墓所内、左列の家宣夫妻墓の手前にある。 静寛院宮宝塔(銅造) - 家茂夫人和宮(静寛院)の墓塔。墓所内、左列の家茂墓の手前にある。 合祀塔(石造) - 墓所内、左列のもっとも手前にある。家宣の父・綱重(清揚院)、五代綱吉の生母・桂昌院、十一代家斉の正室・広大院、十三代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。2021年(令和3年)現在の合祀塔は、元は月光院宝塔であった。 徳川家墓所門(2019年(令和元年)11月撮影) 第二代秀忠、同夫人の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 第六代家宣、同夫人の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 第七代家継の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 第九代家重の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 第十二代家慶の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 第十四代家茂の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 家茂夫人の宝塔(2019年(令和元年)11月撮影) 合祀塔(2019年(令和元年)11月撮影)
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