徳大寺実定
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徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。百人一首では後徳大寺左大臣として知られる。
- ^ 実定の権大納言辞任は六条天皇即位の直後にあたるが、六条天皇の生母を出した伊岐氏は徳大寺家の家司であったことから徳大寺家は外戚に准じる立場にあり、自己の縁戚である憲仁親王(後の高倉天皇)の擁立を意図する清盛にとっての政治的障害になっていたとする。また、高倉天皇の大嘗会に奉仕する女御代に実定の娘が選ばれながら突如清盛の娘に差し替えられた事(『兵範記』仁安3年7月30日・8月28日条など)、実定が清盛の側近である藤原邦綱の娘(母親は実定の妹)と縁組しようとした際に清盛が阻止に動いた事(『玉葉』治承元年11月11日条・『愚昧記』同年11月15日条)など、実定の政治的復権につながりうる動きには掣肘が加えられている。
- ^ 九条兼実の『玉葉』寿永2年11月23日条に、「内大臣非解官、借用云々、凡闕官ハ、所謂死闕、転任、辞任也、借官始之当今、禅門(基房)之計、可然々々」と記し、続いて師家の借官と摂政内大臣就任の経緯が記されている。
- ^ 頼朝追討宣旨発給の経緯について頼朝は、妹婿の一条能保から「都人の伝言」として報告を受けているが、その情報は後白河院の諮問に対する経宗、兼実、実定、経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
- ^ 実定と頼朝の繋がりは一条能保との関係に加えて、統子内親王(上西門院)が皇后宮であった時に皇后宮権大夫と同権少進を務め上下関係にあったことが知られている。なお、上西門院と実定の繋がりは以後も長く続き、女院の女房であった備後局が実定の後継者である公継の生母となり、その公継も上西門院の御給によって叙爵されている。
- ^ 徳大寺公守の母を藤原顕長の娘ともする。
- 1 徳大寺実定とは
- 2 徳大寺実定の概要
- 3 系譜
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