【復員】(ふくいん)
demobilization.
軍隊が紛争・事変・戦争の終結に伴い、部隊を解散して人員を解放すること。
基本的には臨時に編成された予備役や民兵を対象として行われる。
紛争に際しては緊急に戦力増強が必要となるため、様々な方法で人員が集められ、新たな部隊が相次いで編成される。
しかし、そうして増設された部隊と人員は兵站に相応の負荷を与えるため、終戦後には復員され市井に戻される。
動員された個々の人員にとって、復員とは故郷への帰還を意味するので、おおむね歓迎される。
しかし、そうした人々が新たに就職して社会生活を営めるかはまた別の問題である。
復員を行うと一斉に大量の失業者が発生する関係上、十分な雇用が確保されない事がありえる。
特に、社会生活に支障を及ぼすような重篤な傷病や戦争神経症を負った退役兵士の運命は総じてあまり明るくなく、生活に窮した挙句の凶悪犯罪やアルコール・ドラッグの依存症など、新たな社会問題の種ともなる。
関連:徴兵制 戦争神経症
復員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 05:27 UTC 版)
復員(ふくいん)とは、軍隊の体制を「戦時」から「平時」に戻し、兵を動員状態から服務待機に戻すこと[1]。また、軍務を解かれた兵が帰郷すること[2]。
- ^ a b “陸軍動員計画令細則/其3/第13章 復員”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2023年1月13日閲覧。
- ^ 『広辞苑』第5版、岩波書店、1998年。
- ^ a b 日本放送協会. “50年間、口外してはならない 極秘調査・兵士たちの“心の傷””. NHKニュース. 2021年8月30日閲覧。
- ^ a b c 中山俊宏、舟津奈緒子. “退役軍人のアメリカ政治における役割”. 公益財団法人日本国際問題研究所. トランプ政権の対外政策と日米関係. 2021年5月6日閲覧。
- 1 復員とは
- 2 復員の概要
復員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 02:24 UTC 版)
終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、武装解除が行われる。9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港する。9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、26日に全員が下船。陸軍786名・海軍約840名が復員し、10月17日に残務処理が完了した。 防衛庁戦史室の調査によれば、配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)となっている。厚生省援護局資料によれば、陸軍総員3404名・戦没2533名・転属237名・サイパン後送62名・復員572名・別府入院患者207名。海軍第44警備隊資料では、海軍総員3290名・戦病死2253名・戦死175名・内地後送63名・復員799名。
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復員
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作戦参謀八原博通ら将校クラスは、収容所内での労働も免除されており、第一弾の復員が1945年12月31日に実現している一方、沖縄での米軍の軍作業を担った兵士の復員については、やっと1946年10月3日から第一弾の復員が開始された。 捕虜収容所の収容者らが発行していた「沖縄新聞」第23号(1946年10月4日)によると、第1回目の復員は那覇軍港からと牧港から、二隻の LST で出港したことが記録されている。 復員遂に始まる LST二隻に分乗 第一回帰国者出航す 船内に友軍被服を準備遂に来た復員開始の日10月3日 この日を待っていた帰国者1798名は嘉手納・牧港・ライカム (註・ライカム収容所とは普天間収容所のこと) 及び小禄の集結場所から折柄作業にでて行く戦友達に千切れる程手を振りつつトラックを連ねて那覇港に向ふ 那覇港には港湾倉庫が小野山収容所 (ママ) (註・奥武山捕虜収容所のこと) の真正面の岸壁にLST(上陸用舟艇)が一隻大きな扉を観音開きに開いてピッタリと上陸板をおろしている そして牧港寄りの岸壁にもう一隻 牧港寄りの一隻には嘉手納から来た800名が 他の一隻には残りの1000名が見る間に吸い込まれて行く 船内はただ広い船倉にゴザを敷いて悠々と寝そべることが出来る 帰国者内訳 第一次復員船で帰国する各収容所の人員は次の通りである ベース・キャムプ (註・屋嘉捕虜収容所) 3名、病院3名、ライカム330名、楚辺266名、嘉手納559名、牧港403名、小野山(ママ)83名、小禄151名、合計1798名 — 「沖縄新聞」第23号 (1946年10月4日) 1947年2月までには沖縄島の捕虜収容所からの復員はすべて完了し、捕虜収容所は閉鎖された。
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復員
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第一次世界大戦が終わると、兵士達は可処分所得を持ってアメリカ合衆国やカナダに復員し、市場にはそれを消費するための新製品が待っていた。最初は、戦時生産の減少で短期間だが深い不況が訪れた。これは第一次世界大戦後不況と呼ばれている(戦後恐慌のひとつ)。しかし、アメリカ合衆国とカナダの経済は、復員した兵士達が労働力として復帰し、工場が一新されて大衆消費財を生産するようになると直ぐに立ち直った。
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復員
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沖縄戦の作戦参謀八原博通らをはじめとした将校クラスは、収容所内での労働も免除されており、第一弾は1945年12月31日に復員している一方、兵士の復員は、1946年7月に予定されていたものがさらに延期され、1946年10月3日から第一弾の復員が開始された。 捕虜収容所の「沖縄新聞」第23号(1946年10月4日)の記事によると、第1回目の復員は那覇軍港からと牧港から、二隻の LST で出港したことが記録されている。 復員遂に始まる LST二隻に分乗 第一回帰国者出航す 船内に友軍被服を準備遂に来た復員開始の日10月3日 この日を待っていた帰国者1798名は嘉手納・牧港・ライカム (註・ライカム収容所とは普天間収容所のこと) 及び小禄の集結場所から折柄作業にでて行く戦友達に千切れる程手を振りつつトラックを連ねて那覇港に向ふ 那覇港には港湾倉庫が小野山 (ママ) (註 奥武山捕虜収容所) 収容所の真正面の岸壁にLST(上陸用舟艇)が一隻大きな扉を観音開きに開いてピッタリと上陸板をおろしている そして牧港寄りの岸壁にもう一隻 牧港寄りの一隻には嘉手納から来た800名が 他の一隻には残りの1000名が見る間に吸い込まれて行く 船内はただ広い船倉にゴザを敷いて悠々と寝そべることが出来る 帰国者内訳 第一次復員船で帰国する各収容所の人員は次の通りである ベース・キャムプ (註・屋嘉捕虜収容所) 3名、病院3名、ライカム330名、楚辺266名、嘉手納559名、牧港403名、小野山(ママ)83名、小禄151名、合計1798名 — 「沖縄新聞」第23号 (1946年10月4日) 1947年2月までには沖縄島の捕虜収容所からの復員はすべて完了した。
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復員
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8月15日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。砲兵補充隊は9月5日に、輜重兵補充隊は9月17日に復員したが、他の補充隊はその後になった。 第157師団など先に復員した他部隊の人員の一部は、弘前師管区部隊に転属して勤務を続けた。 内地の師管区司令部は陸軍省廃止直前の11月30日に一斉に復員し、このとき弘前師管区部隊も廃止になった。実質的には司令部が第一復員省東北復員監部弘前支部に転換したが、人員は17人とごく小さくなった。
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復員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 03:38 UTC 版)
8月15日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。 砲兵、工兵の補充隊は9月5日に、輜重兵補充隊は9月13日に復員したが、歩兵と通信の補充隊はその後になった。第72師団など先に復員した他部隊の人員の一部は、仙台師管区部隊に転属して勤務を続けた。 内地の師管区司令部は陸軍省廃止直前の11月30日に一斉に復員し、このとき仙台師管区部隊も廃止になった。
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復員
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8月15日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。砲兵補充隊は9月12日に復員したが、他の補充隊はその後になった。 内地の師管区司令部は陸軍省廃止直前に一斉に復員し、宇都宮師管区部隊も廃止になった。実質的には司令部が第一復員省東部復員監部宇都宮支部に転換したが、人員は38人とごく小さくなった。
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