御城将棋(おしろしょうぎ)
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江戸後期からの年中行事のひとつで、江戸城下・御黒書院において将棋家元三家などが将軍御前で行われる対局の催し。
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御城将棋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:56 UTC 版)
御城将棋(おしろしょうぎ)とは、江戸時代の将棋所が毎年1度、江戸城内で公務として行っていた対局のこと。開始当初は時期が不定であったが、後に制度化され、徳川吉宗の代の享保元年(1716年)から、大坂冬の陣の吉例にちなんで「御城碁」とともに、旧暦11月17日に行われるようになった(11月17日開催の由来については、「寛永の御吉例」(家光将軍時代に毎年11月に上覧退去を行ったこと)及び「徳川家康の月命日が17日だったから」という説もある)。現在では新暦の11月17日が「将棋の日」とされている。 将棋所の唯一の公務であったため、従来は将軍の面前での御前試合のような位置づけであり、御城将棋に参加した将棋指しはいかなる理由があろうと退席はできない(「親の死に目に会えない」)ものと考えられてきたが、近年発見された大橋家文書などの資料に基づく研究により、これらの考えが必ずしも正しくないことがわかってきた。 建前としては「将軍の御前で技芸を披露する」となっているが、将軍が観戦に訪れることはほとんどなく、老中がごく短い時間観戦する程度であった。また、その日の内に勝負を終わらせるしきたりとなっていたが、初期の頃は定刻までに勝負がつかないこともしばしばで、そのときは老中の家に移って指し継がれることとなっていた。老中側も公務を妨げられることから、煩雑を避けるためにも、元禄のころからは事前に指しておくようになり、城内ではその手順を再現する「儀式」と化していった。 御城将棋自体は儀式化されたが、対局後に「お好み」として将棋所が将軍や仕える武士への指導対局を行うようになり、江戸幕府の崩壊まで継続することになった。 現在の関西将棋会館の5階は、この故事にちなみ、江戸城で御城将棋の開催場所として使われていた「御黒書院」を模したつくりとなっている。
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