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後白河天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 10:18 UTC 版)
(後白河法王 から転送)
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。
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- ^ 「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」(『山槐記』永暦元年12月4日条)
- ^ ただし、河内祥輔のように平治の乱を後白河の了解の下に藤原信頼ら院近臣が鳥羽法皇の意向の執行者であった信西を排除して名実ともに治天の権限を獲得しようとしたもので、三条公教らによって切り崩された経宗・惟方らが離反したことにより、六波羅に退避した二条を中心とした一種の「逆クーデター」が発生した結果、信頼らは討たれて失敗に終わったとする見解もある(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』2002年、吉川弘文館、第二章及び『日本中世の朝廷・幕府体制』2007年、吉川弘文館、p25-30)。
- ^ 『愚管抄』には「ナクナク仰有ケレバ(泣いて頼み込んだ)」とあり、実際には平身低頭に近かったと思われる。
- ^ これは左大史・小槻隆職が左少弁・藤原行隆から聞いた内密の話を、隆職が兼実の邸を訪問した際に語ったものである。「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」は清盛の発言とするのが一般的な解釈であるが、この発言の前に「行隆を召し仰せて云はく」という記述がある。その丁寧な語法から、行隆を召してこの発言をしたのは後白河であるという説もある(高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社、2007年)。
- ^ 『梁塵秘抄』「四句神歌」に「滝は多かれどうれしやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも絶えでとうたへ、やれことつとう(滝は多いけれども嬉しいと思うよ、鳴りとどろくこの滝を見て。たとえ日が照りつけても水の流れは絶え尽きない。ヤレコトットウ)」という祝言歌がある。
- ^ 『明月記』3月15日条に「今日初めて院并に八条院に参ず。八条殿におはします」、同12月13日条に「上皇新造御所に御移徙。八条院同じく渡りおはします」と記されている。
- ^ 義仲の動向を気にする八条院に、後白河は「木曾は何とかは知らん(木曾など問題ではない)」(『たまきはる』)と語っている。
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年8月17日条は、自由任官問題により頼朝・義経の関係が悪化したという記事だが、「義経が勝手に検非違使に任官したため、頼朝が激怒して追討使から外した」と説明するのはこの記事だけで、同時代の記録には見られず、『平家物語』諸本でも「延慶本」「長門本」「四部本」では、単に範頼・義経の任官記事を一括記載するのみで、義経が自由任官をしたと書いているのは「源平盛衰記」しかないことから、その信憑性に疑問が投げかけられている(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川選書、2005年)。義経が京都に留まることを余儀なくされたため、追討計画の変更を迫られたことが、頼朝が機嫌を損ねた原因であるという説もある(元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年)。
- ^ 院御厩司は牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核であり、院の親衛隊長ともいえる地位だった。頼朝は国家的武力を独占することを志向しており、義経の院御厩司就任に警戒心を抱いたのではないかという説もある(元木泰雄『源義経』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉2007年)。
- ^ 小原仁「文治元年の後白河院政」(初出:佐伯有清先生古希記念会 編『日本古代の祭祀と仏教』吉川弘文館、1995年/改題所収:「大仏開眼会と後白河院政」小原『中世貴族社会と仏教』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4-642-02460-0)
- ^ この「守護地頭」については、石母田正が「一国地頭職」の概念(「鎌倉幕府一国地頭職の成立」『中世の法と国家』東京大学出版会所収、1960年)を提唱してから多くの議論が展開され、現在ではこの「守護地頭」は鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であるとする説が有力となっている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』〈講談社選書メチエ〉講談社、1996年)。
- ^ 京極殿領・高陽院領については藤原忠実を参照のこと。
- ^ 該当の表現は『玉葉』文治元年11月26日条、『吾妻鏡』文治元年11月15日条の頼朝の高階泰経宛て書状の文面に見られる。この表現に対し従来は頼朝が後白河を評した言葉として理解されてきたが、近年河内祥輔・遠城悦子らは、この書状が院宣ではなく泰経の私信に対する返書であることを理由に、大天狗=泰経説を唱え、五味文彦・保立道久らも賛同した。しかし院の意向を知らせる他の書状も泰経私信の形式を取っていること、書状を届けた使者が泰経私邸ではなく院御所を訪ねていることなどから、やはりこの表現は泰経個人ではなく後白河を評したものであろうという反論(川合康など)が出ている。また永井路子は、「大天狗」とは頼朝に対する院側の評語「天魔の所為」に対する頼朝側の対抗的な揶揄であろうとし、橋本義彦は成り上がりの近臣・泰経を「日本国第一の大天狗」とするのは買いかぶりであるとしている(『源通親』吉川弘文館〈人物叢書〉、1992年)。その点からも大天狗=後白河説の方が自然とする。いずれにしろ結論はまだ出ていない。
- ^ 『皇胤系図』による。『本朝皇胤紹運録』では平信業の女とするが、平信業は保延4年(1138年)生まれであるため誤り。
[続きの解説]
「後白河天皇」の続きの解説一覧
- 1 後白河天皇とは
- 2 後白河天皇の概要
- 3 人物
- 4 后妃・皇子女
- 5 在位中の元号
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