あい‐ら【▽彼▽等】
あれ‐ら【▽彼▽等】
かれ‐ら【彼▽等】
彼ら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「彼ら」の解説
「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである。 現存在は他者たちによる乗っ取り要求に従属する。現存在は「私である」というあり方で存在すると同時に、「他者と共に私である」という形でも存在する。「私である」という形だけで存在できることはめったになく、「我々である」と同時に「彼らと共に」存在しなければならないのである。ハイデガーの言葉によれば次のようになる。 現実の公共的環境において、輸送機関などの公共手段を使用したり新聞などの情報サービスを利用したりするとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。自己の現存在が『他者たち』のあり方に完全に溶け込むのである。 現存在は他者たちのなかに没入するが、それらは特定の誰でもなく『ダス・マン(Das Man)』としてあり、没個性的で顔の見えない集団である。 日常生活のなかでは現存在が他者たちに溶け込み、他者たちと化す。同時に、他者たちも溶解し現存在の一部となる。このようなものとしての『彼ら』を識別することは極めて難しく、ここに『彼ら』の力の源がある。 目立たず、確認し難い故に「彼ら」の真の独裁性が発揮される。「彼ら」が楽しむ通りに私たちは楽しむ。「彼ら」が見て評価する通りに私たちは鑑賞し、評価する。「彼ら」がこれは酷いと思うその同じものについて私たちもこれは酷いと思う。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。
※この「彼ら」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「彼ら」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。
「彼ら」の例文・使い方・用例・文例
- 彼らのアパートは古道具屋の真上にある
- 彼らは主将のいないところで悪口を言った
- 彼らは川を泳いで渡った
- 彼らの行為を正当化することは不可能だ
- 彼らは国際的合意の必要性を強く意識している
- 彼らは全員入院した
- 彼らは今からずっと昔の1960年に結婚した
- 彼らはその他の問題の大半に合意した
- それでも私は彼らより一歩先を行っている
- 彼らはトップのチームに意外な勝利をおさめて大喜びした
- 彼らには全員その夜のアリバイがあった
- 彼らの言いわけはどれも似たりよったりだった
- 彼らは皆僕がレースに勝つと思っている
- 彼らはすっかり平らげた
- 彼らは川の東の土地に対する要求を認められた
- 彼らは動物園に動物を見に出かけた
- 彼らは結婚10周年を祝った
- 彼らは毎年結婚記念日を祝う
- 彼らはどうにかしてエイズを撲滅しようと思っている
- 彼らは日本におけるビートルズだ
- >> 「彼ら」を含む用語の索引
- 彼らのページへのリンク