弘道館_(佐賀藩)とは? わかりやすく解説

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弘道館 (佐賀藩)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 02:29 UTC 版)

弘道館記念碑(佐賀市松原

弘道館(こうどうかん)は、江戸時代中期に日本佐賀藩が設立した藩校である。弘道館(学館)といい、水戸藩出石藩但馬国)の同名の藩校と並んで「天下三弘道館」の一つと称された。

沿革

経緯

1781年天明元年)、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂儒学者古賀精里に命じ、佐賀城に近い松原小路に藩校「弘道館」を設立した。

設立にあたり、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとした。鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、成功した改革と藩校の関係を学ばせた。改革の秘訣は「改革の担い手となる人材の育成」にあった。鶴山自身も、鍋島治茂の許可を得て、幕臣大田南畝(蜀山人)、広島藩頼春水ら学者と交流を深め、親しい間柄になった。それとともに、諸国を遊歴した。安永年間には、近江美濃尾張、河、陸奥出羽江戸上総下総上野下野信濃大坂山陽諸国を、天明年間には、肥後薩摩、江戸、北陸及び山陰諸国、筑前長門近江京都伊勢、尾張、大坂、山陽諸国を訪れて、他藩の改革事例を収集し、諸国の実状の把握に努めた[1]。古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となった。

1806年文化3年)、古賀精里の子である古賀穀堂は意見書『学政管見』を提出した。この意見書で「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」などと提言し、教育の重要性を訴えた。これは江戸時代の教育論としては現在も評価が高い。1830年天保元年)、第10代藩主鍋島直正は藩主になると同時に弘道館の充実を指示した。

1840年(天保11年)、鍋島直正は北堀端に移転拡充し、蒙養舎を設立した。蒙養舎では15歳以下の藩士の子弟を教育した。古賀穀堂が直正の教育係を務めた。穀堂が『学政管見』で訴えた政策はほぼそのまま実施されたと言える。例えば170だった教育予算は、1840年(天保11年)には1,000石に増加していた[2]

幕末から明治新政府で活躍した副島種臣大木喬任大隈重信佐野常民江藤新平島義勇らの佐賀藩士は弘道館の出身者である[3]。弘道館の教育理念は旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)と勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)に受け継がれた。勧興小学校は年少者が学んでいた蒙養舎を継承して開校した。その校舎の2階には現在も資料室「懐古堂」がある。旧制佐賀中学校は弘道館跡に開校した。

年表

教授

  • 古賀精里(弘道館教授、儒学者)
  • 古賀穀堂(弘道館教授) - 古賀精里の子
  • 古資素堂
  • 鍋島茂真(学館頭人、佐賀藩請役当役) - 直正の庶兄、須古鍋島家(白石町)十四代邑主
  • 草場佩川(弘道館教授、儒学者)
  • 草場船山
  • 枝吉南濠
  • 枝吉神陽(弘道館教授 国学者) - 副島種臣の実兄
  • 副島種臣
  • 石井鶴山(儒学者)
  • 相良知安(医学者、のち蘭学寮)
  • 関尚樸
  • 石田一鼎
  • 河浪自安
  • 河浪質斉
  • 武富廉斉
  • 宝松致斉
  • 宝松文信
  • 宝松戩甫
  • 鶴田省庵
  • 多久顔楽
  • 深江純孝
  • 釈大潮
  • 大塚師政
  • 大塚松処
  • 大塚克忠
  • 大塚桂山
  • 長森以休
  • 平本智雄
  • 原守孝
  • 岡竜洲
  • 河野恕斉
  • 村島政方
  • 長尾遁翁
  • 長尾東郭
  • 福地元雅
  • 石丸亀峰
  • 横尾紫洋[5]
  • 副島崑崙
  • 栗原長洲
  • 一ノ瀬庄助
  • 野田無名
  • 武富坦堂
  • 武富蜜庵
  • 山領梅山
  • 石隈邦烈
  • 高楊浦里
  • 原田復初
  • 原田葮涯
  • 原田紫陽
  • 村島政方
  • 古賀朝陽
  • 中村嘉田
  • 岡本髄巌
  • 牟田口藤右衛門
  • 井内南涯
  • 小柳宝里
  • 執行一介
  • 吉村幹斉
  • 夏秋富雅
  • 小代布水
  • 田中紫坡
  • 千布紫山
  • 清水竜門
  • 橋本岡陰
  • 鴨打謙斉
  • 大野梁村
  • 大園梅屋
  • 福田東洛
  • 鶴田斌
  • 鶴田斗南
  • 福島金岡
  • 服部滄洲
  • 永山二水
  • 西鼓岳
  • 三好十洲
  • 松永樟陰
  • 本田豁堂
  • 関迂翁
  • 千住西亭
  • 佐々木碑陽
  • 島国華
  • 木原隆忠
  • 満岡白里
  • 古賀竹堂
  • 迎迂斉
  • 石井松堂
  • 古賀一平

現代

佐賀県が弘道館の名を冠した様々なイベントを展開している。この一部について、商標権を巡り、鍋島氏子孫と佐賀県との間で訴訟になっていることが『産経新聞』で2018年(平成30年)10月に報じられた[6]

跡地

弘道館の跡地は1929年(昭和4年)から佐賀市役所の敷地として使用された[7]。1975年(昭和50年)の佐賀市役所移転に伴い民間に売却される予定だったが、佐賀県が取得して県有地となり、1992年(平成4年)に「くすかぜ広場」として供用を開始した[7]。2022年5月14日にくすかぜ広場「ARKS」の愛称でリニューアルされている[8]

参考文献・記事

  1. ^ 『佐賀藩中興の祖鍋島治茂の改革を支えた叡智 石井鶴山の生涯』
  2. ^ 改革ことはじめ(15)教育は聖域 ~人材育成 最大の遺産に~(佐賀新聞社、2012年4月3日閲覧)
  3. ^ 佐賀藩校弘道館跡地由緒書
  4. ^ 鬼丸聖堂跡|さがの歴史・文化お宝帳2012年4月3日閲覧)
  5. ^ 『勤王の先駆者 横尾紫洋 その生涯と漢詩』がある。副島廣之編、善本社、2001年
  6. ^ 「弘道館」商標 使用やめて/佐賀藩主の子孫、県を提訴/セミナーの内容争点「史実と無関係」×「非常に有意義」『産経新聞』朝刊2018年10月11日(社会面)2018年10月15日閲覧。
  7. ^ a b 地域再生計画”. 内閣府地方創生推進事務局. 2022年5月14日閲覧。
  8. ^ くすかぜ広場「ARKS」オープン「歩くライフスタイル」の拠点完成”. 佐賀新聞. 2022年5月14日閲覧。



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