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愛新覚羅溥儀

(康徳帝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 08:09 UTC 版)

愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、満洲語ᠠᡞᠰᡞᠨ
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、転写:aisin gioro pu i、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、の第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国執政1932年3月9日 - 1934年3月1日)、満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1960年から中華人民共和国中国人民政治協商会議(政協)文史研究委員会専門委員、1964年から政協全国委員を兼任。


注釈

  1. ^ 同書は溥儀に捧げられている。
  2. ^ 溥儀はこの親書を偽作と主張した。だが、裁判所の命令により、科学捜査研究所の写真課課長である高村巌が筆跡鑑定を行った結果、親書に記入された文字のほとんどが溥儀の真筆であると断定された[22]

出典

  1. ^ 清朝皇帝の末裔は日本で眼科医 「日中のつながり広げたい」”. 産経ニュース (2022年2月5日). 2022年2月7日閲覧。
  2. ^ ジョンストン 2005b, p. 306.
  3. ^ ジョンストン 2005b, p. 246.
  4. ^ ジョンストン 2005b, p. 315.
  5. ^ ジョンストン 2005b, p. 365.
  6. ^ a b c ジョンストン 2005b, p. 366.
  7. ^ ジョンストン 2005b, p. 388.
  8. ^ ジョンストン 2005年[要文献特定詳細情報]
  9. ^ 旅順黄金山溥儀楼(大連観光名所、2018年)
  10. ^ ジョンストン 2005b, p. 393.
  11. ^ 末代皇帝的墨鏡與認同危機(下)”. 聯合電子報 (2018年3月14日). 2019年9月19日閲覧。
  12. ^ 小磯の日記である葛山鴻爪より。[要文献特定詳細情報]
  13. ^ a b c d 吉川慧 (2017年10月9日). “「ラストエンペラー」溥儀の没後50年。波乱の生涯をふり返る”. HUFFPOST. The Huffington Post. 2022年9月10日閲覧。
  14. ^ 満洲国と溥儀「歴史群像シリーズ 満洲帝国」学研[要文献特定詳細情報]
  15. ^ “満州国皇帝・溥儀もてなしたグラスや皿初公開 奈良ホテル”. 産経新聞. (2014年12月10日). https://www.sankei.com/article/20141210-WTOXJ2NBOBJR7OF3JBACT4TXVM/ 
  16. ^ “日本ニュース 第3号”. NHK. (1940年6月26日). https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300388_00000&seg_number=001 2012年1月21日閲覧。 
  17. ^ 「溥儀 幻の救出劇」中日新聞2003年8月4日
  18. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、190頁。ISBN 9784562049318 
  19. ^ 保阪正康『昭和史講座』第五号[要文献特定詳細情報]
  20. ^ 賈英華『末代皇帝的非常人生』人民文学出版社、2012年。[要ページ番号]
  21. ^ 「溥儀の財宝150点の写真/宝飾品 ソ連抑留中に差し出す」『読売新聞』朝刊2018年3月20日。
  22. ^ 高村巌『筆蹟及び文書鑑定法』 2巻、立花書房〈科學搜査硏究所叢書〉、1950年、135-154頁。 
  23. ^ 渡部昇一. “満州は日本の侵略ではない”. web-will. 2009年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月3日閲覧。
  24. ^ 『「流転の王妃の」の昭和史』主婦と生活社、1984年11月25日、179頁。 
  25. ^ 王效賢「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」『人民中国』2005年10月、2010年1月3日閲覧 
  26. ^ 李淑賢著『わが夫、溥儀』[要文献特定詳細情報]
  27. ^ Edward Behr (1987). The Last Emperor. Futura. pp. 283-285. ISBN 9780773680258 
  28. ^ 愛新覚羅溥儀のまわりを見れば、日本史と中国史がわかる”. Tabiyori. アルゴリズム. 2022年9月18日閲覧。
  29. ^ “「ラストエンペラー」とその時代を知る 溥儀研究院が中国・長春に設立”. AFPBB (AFP). (2017年9月30日). https://www.afpbb.com/articles/-/3143932 2017年9月30日閲覧。 
  30. ^ 他に訳書は、李淑賢『わが夫、溥儀』編(学生社、1997年)、著書『毛沢東、周恩来と溥儀』(科学出版社、2017年)がある。
  31. ^ 立命館大学・畑中和夫名誉教授は、愛新覚羅溥傑への名誉法学博士号贈呈の経緯について問われた際、以下のように述べている。(以下、引用)『昭和14,5年頃の日満高等学校の設立にあたり、当時のお金で50万円という巨額の寄付を愛新覚羅溥儀から受けた。そのうち20万円で、衣笠の6万坪の土地を購入し、校舎を建て、さらに学生向けの奨学金の基金も創設できた。満洲国皇帝からの寄付を受けたのは立命館と秋田工業専門学校(現秋田大学の前身)の2つだった。この寄付の一件について、満洲国と立命館の仲介をしたのが、当時、満洲国駐日大使として日本にいた溥傑氏であった。月日が流れて、溥傑氏が中国全人代の中の常務委員としての肩書きで訪日し、清水寺を訪ねた折のこと、思い出話の中で、この寄付の一件を溥傑氏が覚えていて「そのような縁のある立命館を見てみたい」と言っているとの話が、清水寺ルートで畑中教授に伝わった。この話を受けて、畑中教授が学内外の人と相談を重ね、「まさか返してくれとはおっしゃるまい」など心配もしながら、元侯爵嵯峨氏などにも相談し、嵯峨侯爵から「然るべき処遇をすれば良い」とのアドバイスを得て、総長の判断で、当時の溥傑氏肩書きに相応しい名誉学位としての「法学博士」号を贈ることとなった。』(立命館大学千葉校友会サイト「ちば校友の集い」にて、畑中和夫名誉教授談として紹介)
  32. ^ 1939年(昭和14年)3月16日、満洲国補助金交付の通達が財団法人立命館に発せられた。補助金の内容は1939年度30万円、40年度20万円の二カ年継続合計50万円であった(『立命館日満高等工科学校 - 理工学部前史の一齣 -(著・伊藤武夫)』、「立命館百年史紀要・第二号(1994年3月)」55頁-60頁より)


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