島津源蔵 (初代)とは? わかりやすく解説

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島津源蔵 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 00:34 UTC 版)

初代島津源蔵

初代島津 源蔵(しまづ げんぞう、天保10年5月15日1839年6月25日) - 明治27年(1894年12月8日)は、幕末から明治時代にかけての商人実業家発明家島津製作所の創業者である。

生涯

京都の醒ヶ井魚棚(現・堀川六条付近)で仏具の製造をしていた島津清兵衛の次男として生まれた。家業を治め、1860年万延元年)に21歳で木屋町二条に出店した。この地は高瀬川の船便の終点に近く、当時の重要な流通拠点であった。また、京都府は殖産興業のため1870年明治3年)に勧業場、舎密局などをこの付近に設立し、源蔵は舎密局に出入りするようになった。京都舎密局で理化学の講義を受け、実業を体験するなか、金属加工に携わる仏具職人としての腕を買われて初代局長の明石博高から、輸入した教育用理化学器械の修理や整備の依頼を受けるようになる[1]。舎密局内の「京都司薬場」に派遣されたアントン・ヨハネス・ゲールツからも学んだ[1][2]

ここで知識を得た源蔵は1875年(明治8年)3月31日に教育用理化学機器の製造を始め、島津製作所を創業した。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では製の医療用ブーシーを出展し、内務卿大久保利通から褒状を受けている。

また、同年に京都府は科学思想啓発のために国内初の有人気球を計画し、京都府知事槙村正直の命により、源蔵はその実行責任者となった。ガス球部分には胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重を用い、鉄くず硫酸四斗樽10個を使って発生させた水素ガスを内部に封入した。招魂祭のある同年12月6日仙洞御所の広場で飛行試験が行なわれ、気球は5万人の観衆の前で36mの高さまで浮上した。この日本初の有人軽気球飛行の成功は東京の新聞でも報じられた[3]。これによって源蔵の知名度は大きく向上したといわれる。

1878年(明治11年)2月3日から3年間、京都府はゴットフリード・ワグネルを舎密局に招聘・雇用した。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵にも接していた。8歳の長男・梅次郎(二代目源蔵)も父とともにワグネルに学んだ[4]。源蔵は1881年の第二回内国勧業博覧会に理化学器械を出品し、蒸留器で有功二等賞牌を受賞した[2]。ワグネルから送られた木製旋盤島津創業記念資料館に現存する。また、1882年のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた蒸留器が掲載されている。

1883年4月、源蔵は京都府博覧会の審査委員に任命され、科学関係器機の審査に当たった[5]。また、本業の合間に、引接寺 (京都市)の大鰐口など、注文があれば鋳造品の製作にも応じていた[5]

源蔵は科学教育に携わるようになり、学校令が公布された1886年(明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・京都教育大学)の金工科で教職を一年間務めた。また同年、試験用の理化学器械を使って公開実験と講習会を行う「理化学会」の発足を発表した[6]

1894年(明治27年)1月、2階全体を大陳列室とした木屋町本店を新築する[7]。翌年春に開かれる第4回内国勧業博覧会に備えて大陳列室の展示内容や博覧会出品作の準備を進めていたが、同年12月8日脳溢血のため、55歳で亡くなった。没後に長男の梅次郎が2代目島津源蔵を襲名し、後継者となった。

略歴

家族

参考文献

  • 「その志は〝日本のエジソン〟へと受け継がれた」上山明博(『歴史街道─特集:島津源蔵と京都近代産業』PHP研究所,2017年11月号)
  • 「京都と島津源蔵父子」大谷晋一(『化学と教育 Vol.41(1)』日本化学会,1996年)

関連項目

脚注

  1. ^ a b 島津製作所/2 教育用理化学器械の修理や整備に精励=広岩近広毎日新聞、2022.3.12
  2. ^ a b 創業のこころ 仏具職人から理化学器械の製作へ川勝美早子、国際日本文化センター
  3. ^ 島津製作所/5 有人軽気球の飛揚で面目躍如=広岩近広毎日新聞、2022.4.2
  4. ^ 島津製作所/6 父子でドイツ人化学者ワグネルに学ぶ=広岩近広毎日新聞、2022.4.9
  5. ^ a b 島津製作所/8 15歳の長男が「感応起電機」を製作=広岩近広毎日新聞、2022.4.23
  6. ^ 島津製作所/9 科学技術の振興にと「理化学会」=広岩近広毎日新聞、2022.4.30
  7. ^ 島津製作所/11 大陳列室を完備した本店を新築=広岩近広毎日新聞、2022.5.14
  8. ^ 京都と島津源蔵父子大谷晋一、化 学と教育 44巻1号(T996年)
  9. ^ 島津源蔵『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  10. ^ 島津源蔵『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  11. ^ 島津製作所/4 内国勧業博覧会に出品して褒状=広岩近広毎日新聞、2022.3.26



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