岩崎宏美とは?

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|プロフィール|ニュース|動画|本・雑誌|文献|商品|全文検索
Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 歌手 > 日本の歌手 > 岩崎宏美の意味・解説 

タレントデータベース

タレントデータバンクタレントデータバンク

岩崎 宏美

岩崎宏美の画像 岩崎宏美の画像
芸名岩崎 宏美
芸名フリガナイワサキ ヒロミ
性別女性
生年月日1958/11/12
星座さそり座
干支戌年
血液型B
出身地東京都
URLhttp://www.hiroring.com/
デビュー年1975
プロフィール1975年二重唱(デュエット)』で歌手デビュー。二作目の『ロマンス』が大ヒットとなり、第17回日本レコード大賞新人賞をはじめ、数々新人賞を受賞その後ヒット曲リリースし、1982年火曜サスペンス劇場主題歌聖母たちのララバイ』で130の大ヒット記録し、第13日本歌謡大賞ほか多数の賞を受賞香港エジプトでのコンサート成功させる歌手として様々な実績上げる中、ミュージカルドラマなどでも多彩な才能発揮。デビュー30周年迎え2004年記念BOX『30TH ANNIVERSARY BOX』を発売2007年ミュージカルレ・ミゼラブル』に20周年記念スペシャルキャストとして出演。また同年チェコフィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションアルバム『PRAHA』をリリースし、国内でもオーケストラとのコンサート多数出演。妹の岩崎良美オーケストラとのコンサート実現。また、チェコフィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションアルバムがきっかけで、2008年4月チェコ共和国親善大使任命される。2009年オリジナルアルバムThanks』をリリースした。
デビュー作シングル二重唱(デュエット)
代表作品1シングルロマンス
代表作品2シングル思秋期
代表作品3シングルシンデレラ・ハネムーン
職種音楽

» タレント検索.netはこちら
他のタレント一覧
東京都出身のタレント  塩山みさこ  猫背椿  英由佳  岩崎宏美  宮本裕子  目黒幸子


映画監督・出演者情報

MovieWalkerMovieWalker

岩崎宏美

以下の映画岩崎宏美関連しています。



ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

岩崎宏美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 10:47 UTC 版)

岩崎 宏美
基本情報
出生名 岩崎 宏美(同じ)
別名 ヒロリン
出生 1958年11月12日(53歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都江東区
ジャンル J-POP
職業 歌手女優
活動期間 1975年 - 現在
レーベル ビクター(1975年 - 2000年
インペリアルレコード2001年 - )
事務所 芸映プロダクション(1975年 - 1984年
スリー・ジー(1984年 - )
(株)コンリアルアート(2010年 - )
公式サイト 岩崎宏美オフィシャルサイト

岩崎 宏美(いわさき ひろみ、1958年11月12日 - )は、東京都江東区出身の日本歌手女優である。血液型はB型。愛称はヒロリン。岩崎良美は実妹。

目次

概要

綺麗な声と十分な声量、正確な音程でデビュー当初から実力派歌手として高い評価を受ける。1970年代から1980年代の歌謡界を象徴する、日本を代表する歌手の一人である。

所属事務所芸映プロダクションから、後にスリー・ジーに移籍。レコード会社はビクターから、インペリアルレコードに移籍。

略歴

1958年11月12日、木材機械の輸入販売会社の経営者の次女として誕生した(三姉妹の次女)。歌手・女優の岩崎良美は3歳年下の実妹である。警察の師範も務めた父の影響で、幼い頃から姉妹で剣道をやっており、姉妹ともかなりの腕前を持っていることでも知られている。

成城学園初等学校入学と同時に歌のレッスンを受け、同中学校進学の後、歌手を目指し松田トシ(のちに芸名を「松田敏江」に改名)に師事(国民的名歌手、松田トシをして「一番弟子」といわしめた実力を持つ)。また当時中学の同級生だった岡村清太郎(当時歌舞伎役者。現在は浄瑠璃清元の家元、七世清元延寿太夫)の縁で先代水谷八重子の部屋方となり、新橋演舞場に通う。中3年の時に『スター誕生!』に応募し、1974年2月20日(放映は3月3日)、関東大会で代表選出、同年7月17日(放映は8月11日)決戦大会に出場。小坂明子の「あなた」を歌い最優秀賞に輝く。8社からのプラカードがあがり[1]芸映ビクターレコードと契約[2]。以後大本恭敬に師事し、現在の歌唱スタイルを築く。

1975年4月25日、「天まで響け岩崎宏美」のキャッチフレーズと共に「二重唱 (デュエット)」でデビューした。2枚目の「ロマンス」が90万枚近い大ヒットとなり、細川たかしと共にこの年の新人賞を総なめにする。また、この年、第26回NHK紅白歌合戦に初出場(歌唱曲は「ロマンス」)した。

1976年3月、3枚目のシングル「センチメンタル」が第48回センバツ高校野球大会入場行進曲に初めて選ばれる。

1977年堀越高等学校を卒業した。同期卒業生には森昌子岡田奈々池上季実子などがいる。同年秋、初のバラード「思秋期」が大ヒット、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、実力派の評価を不動のものにする。

1979年7月、中野サンプラザホールで、ロックミュージカル「ハムレット」にオフィーリア役で出演する。ハムレット役は、桑名正博。出演者を探していた演出担当の小田島雄志が、岩崎宏美のリサイタルに訪れ、マイクなしで熱唱する「月見草」を聞いて、舞台袖で「オフィーリアを演じることができるのは君しかいない」と叫んだといわれている。

1982年、前年9月より放送が開始された日本テレビ系の2時間ドラマ『火曜サスペンス劇場』の主題歌「聖母たちのララバイ」に問い合わせが殺到し、当初からシングル発売の時期をうかがっていた制作側は、200名の主題歌カセットプレゼントに28万通もの応募があったことから同年5月21日に発売する。発売後2週目でオリコンチャート週間売上1位を獲得し80万枚の大ヒットとなり、同年11月、日本歌謡大賞を受賞する。また翌1983年3月には同曲が、第55回センバツ高校野球大会の入場行進曲として再び採用された(なお、妹の良美も1986年に「青春」が第58回センバツ高校野球大会の入場行進曲に選出された。姉妹の歌手が共に同大会入場行進曲に選ばれたのは史上初である)。

作曲は当初木森敏之とされたが、発売の2年前に公開された米映画『ファイナル・カウントダウン』のBGMの一つ「ミスター&ミセスタイドマン Mr. and Mrs. Tideman」との類似性が指摘され、後に「木森敏之・John Scott」と併記されることになる。この余波で、外国人作家が関係する曲は選考の対象外であったことから、この年の第24回日本レコード大賞ではノミネートに至らなかった。

1984年、芸能活動の方針を巡る相違から芸映を退社し、個人事務所スリー・ジーを設立する。以降ミュージカルに挑戦し、テレビドラマ『男女7人秋物語』に出演するなど、活躍の幅を広げてゆく。

1985年、独立第1弾のシングル「決心/夢狩人」を発表する。カメリアダイヤモンドのCMタイアップも成功し、ヒットチャートを上昇、トップ20入りを果たす。続いてアルバム『戯夜曼』も好調、見事に独立を成功させた。

1986年、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』に次女・ホーデル役で出演する。さらに、同年10月21日、外務省が中心となって進めている日本文化交流「ジャパン・ウイーク」がエジプトで開催され、そのメインイベントに親善大使として招かれ、ピラミッドスフィンクスの前でコンサートを開く。このライブは同年ビデオ化された後、2004年CD-BOX『HIROMI IWASAKI 30TH ANNIVERSARY BOX』でDVD化、また2007年にライブCD-BOX『ROYAL BOX 〜スーパー・ライブ・コレクション〜』でCD化されている。なお同所で公演を行なったのは、ビートルズフランク・シナトラフリオ・イグレシアスに次いで世界でも四番目の快挙である。

1987年、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演でファンティーヌを演じる。当たり役となり、以後も断続的に演じ続け、2007年の日本初演20周年公演を以って岩崎のファンティーヌは終止符を打ったかと思われたが、2011年の帝国劇場100周年記念公演において、再びファンティーヌを演じることとなった。

1988年、商社マン(益田孝の玄孫にあたる)と結婚し、横浜市港北区に新居を構える。芸名も夫の姓に合わせ益田宏美に変更する。その後1989年に長男を1992年に次男を出産。その間ドイツに住む時期があったが「その頃には既に夫婦仲が悪かった」と後の雑誌インタビューで答えていた。

1995年、協議離婚成立し、離婚時に子どもの親権は夫側が、養育権は岩崎宏美側が得る。後に前夫の再婚後、養育権は前夫が得て、2男児は前夫が引き取る。芸名を岩崎宏美に戻し、歌手活動を本格的に再開する。「子どもに対する面会権を行使し、子どもとはその後も2ヶ月に1度のペースで会っている」とNHKの歌番組で述べている。

2001年、以前の担当プロデューサー飯田久彦の招きで、テイチクが新規に立ち上げたレーベル・インペリアルレコードに移籍する。同年声帯ポリープができ、手術を受ける。

2007年プラハチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、ドヴォルザークホールにて収録したセルフカバー・アルバム『PRAHA』を発表する。

2008年4月、チェコ共和国の初代親善大使に任命される。

2008年5月16日、実妹・岩崎良美とジョイントコンサート(岩崎宏美・岩崎良美Precious Night プレシャスナイト、文京シビックホール)を行った。コンサートの模様はDVD化された。

2009年4月29日、ミュージカル俳優・今拓哉と入籍した。

音楽活動

シングルは1975年から2007年迄の間にマキシ・シングルも含めて61枚が発売され、オリコンチャートでは内15枚がベスト10入りし、「ロマンス」「センチメンタル」「聖母たちのララバイ」の3曲が週間売上1位を獲得している。

シングルセールスのピークはデビュー1年目〜3年目と7年目〜9年目の2度訪れ、特に8年目の「聖母たちのララバイ」の大ヒットで大人の実力派歌手としての地位を不動のものとした。

TBS系の『ザ・ベストテン』には、1979年から1983年までの5年間に5曲計35週チャートインし、「聖母たちのララバイ」が5週連続1位を獲得した。また、『NHK紅白歌合戦』には1975年から1988年まで14回連続出場している。

1984年にデビュー以来10年間所属した「芸映」を退社。大手事務所からの独立という点が影響し、その後数年間、特に音楽番組を中心としてテレビ番組への出演に一定の制約を課せられる。特にデビュー当初から定期的に出演を続けていた『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)には1984年8月「橋」を歌ったのを最後に、1986年春に「好きにならずにいられない」で出演するまで、約2年ほど「芸映」からの制約により出演できないという不遇を味わう。久々に番組に出演した際、オープニング・メドレーの最後を「シンデレラ・ハネムーン」で飾り、岩崎の出演を心待ちにしていた司会の芳村真理から「宏美ちゃん、お帰りなさい」という言葉と共に迎えられる。その後、間もなくして同番組のマンスリーゲストにも起用され(1986年11月期のマンスリー)、改めて実力派歌手としての存在感を視聴者に存分にアピールした。

シンデレラ・ハネムーン」をコンサートで歌う曲目から外していた時期があった。これはこの曲がコロッケの形態模写のレパートリーで「コロッケのものまねの歌」として有名になり、イントロが流れると客席から笑い声が聞こえてくるようになったためである。かつて『速報!歌の大辞テン』(日本テレビ系)で岩崎がVTRでの出演時に、自ら「あの歌は、コロッケにあげました!」と冗談交じりに発言したが、現在では再び自身のコンサートや歌番組でも歌っている。

万華鏡」に妙な声が入っていると、テレビのオカルト番組で取り上げられることがあるが、これはレコーディングのミックスダウンのとき、男性コーラスの低音部分が残ったままマスターテープになってしまったことに由来することが、『奇跡体験!アンビリバボー』1998年8月8日放映分の取材でわかっている。

芸能界一の辛口で知られた淡谷のり子は、当時のルックスに歌唱力が伴わない流行歌手たちを「歌手ではなくカス」とこき下ろしていた中、岩崎だけは「まあ、彼女は歌が上手かったけどね」とその歌唱力を認めていた。

岩崎の歌が話題に上るのは芸能界だけではなかった。『夜のヒットスタジオ』ではNHK交響楽団のソロ・コンサートマスター堀正文(当時コンサートマスター)が岩崎と共演するためだけに出演し、ドイツ滞在時代、岩崎のレコードを日本から送ってもらって繰り返し聴いていたという思い出を語った。芥川也寸志(作曲家)もデビュー当初からその声に魅せられたひとりで、芥川とテレビ共演もあり親交の深かった黒柳徹子が自身の番組『徹子の部屋』でその話題に触れた。さらに古くは『オーケストラがやってきた』に、山本直純の指揮で岩崎が出演、指揮した山本がその歌唱力を讃えたトークもオンエアされた。

岩崎の真骨頂は、やはりライブにあると言ってよい。そのリリカルな歌声と豊かな表現力で、デビュー当時から彼女のステージは絶賛されていた。特にデビューから9年間続いた秋のリサイタルは、彼女のオリジナルに加え、洋楽ポップスやスタンダードにとどまらず、シャンソンやカンツォーネまで歌いこなす発表会的色彩を持ち、全てレコード化されるという異例のものだった。この間、80年に日本フィルハーモニー交響楽団と共演したシンフォニックコンサートも話題を呼んだ。また、1979年から1984年はパイナップル・カンパニー、独立後の1985年から1988年は月光旋律団という自らのバンドを率いてライブ活動を行った。1998年からはライブハウスにおけるアコースティック楽器をバックのステージにも挑戦。ここ数年のステージは、ジャズピアニストの青柳誠をリーダー兼アレンジャーに迎えている。近年は、10代・20代の頃のように幅広いレンジで押しまくるのではなく、人生経験に裏打ちされた説得力のある聴かせるステージとなっている。

1995年活動再開後は、吉田美奈子、Cat Gray、佐藤竹善塩谷哲ほか、幅広いアーティストとのコラボレーションを開始。また以前に比べ若干キーは下がったものの、「許さない」「あとかたもなく」等サビにファルセットを用いた楽曲を次々に発表、新境地を開拓した。2001年にはポリープによる喉の不調に見舞われるが、摘出手術を受け回復した。以前の若々しい歌声がよみがえりつつある。

2007年2月〜5月、ビクター在籍時のオリジナルアルバム全22枚が、デジタル・リマスターの上、LP時代のアートワークを再現した紙ジャケットCDとして復刻された。岩崎自身によるライナーノーツや大量のボーナス・トラックの収録、更に初CD化作品もあり、ヒット、さらにライブ作品を集めたCD+DVD BOX『ROYAL BOX 〜スーパー・ライブ・コレクション〜』が同年12月に発売された。なお、同作品にも、カセットのみで収録された音源や、VHDディスクとして発売されていた貴重な映像が収納されている。

2007年4月、プラハチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、自身の代表曲を中心に12曲を録音、同年9月26日、アルバム『PRAHA』が発売された。

2003年に発売したカバーアルバム『Dear Friends』が好評で、その後もシリーズ化されている。2008年10月には第4弾『Dear Friends IV』をリリースした。2010年には第5弾『Dear Friends V』がリリースされている。




[ヘルプ]
  1. ^ 同回で審査員特別賞を受賞した黒木真由美はその倍以上の18社からプラカードがあがった。また、他の出場者に水越けいこがいた(1社からもスカウトされず)。
  2. ^ テレビ予選、決戦大会ともにVTRは現存していないが、決戦大会の模様は一部フィルム録画され、木曜スペシャル『実録・スター誕生!1974』(1974年11月14日)にて放映された。フィルムの方は存在が確認されており、過去を振り返る番組で流されることも多い。


「岩崎宏美」の続きの解説一覧




固有名詞の分類



岩崎宏美に関連した本

岩崎宏美に関係した商品


岩崎宏美のページへのリンク
「岩崎宏美」の関連用語
岩崎宏美のお隣キーワード
モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
» モバイルで「岩崎宏美」を見る
_ _   


岩崎宏美のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
タレントデータバンクタレントデータバンク
Copyright © 2012 Talent Databank Co.,ltd. All Rights Reserved.
MovieWalkerMovieWalker
(C)MovieWalker
キネマ旬報 (c)キネマ旬報社
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岩崎宏美 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2012 Weblio RSS