山田俊介
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山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1969年7月1日)は、日本の政治家、内務官僚、従四位勲二等瑞宝章。
注釈
- ^ 高文試験に合格するも官庁に登用されなかったため、内務省の次官に直談判した。 - 『山田俊介追悼録』6頁、242頁
- ^ 逗子小学校の友人3人で遊んでいたところ、中学生がボートに乗せてくれたのだが、ボートが沈みすぎるので、山田と上村英輔(後の日本石油株式会社会長、山田とは幼馴染であり同じ中学、高校、大学で学ぶ)の2人は降ろされたという。 - 『文芸春秋』昭和38年4月号
- ^ 1942年の総選挙の際、選挙干渉を拒否し、翼賛候補者とそれ以外の非推薦候補者を平等に扱ったために、東条英機首相の怒りを買い左遷されたとも言われる。青森県の5名の翼賛候補者のうち3名の当選に止り、非推薦候補者の当選も3名であった。 - 『山田俊介追悼録』86頁、90頁
- ^ 当時、満洲では警察と憲兵隊の仲が悪いことが懸念となっていたが、憲兵隊長が幼年学校の同期であったため、たちまち解決したという。 - 『山田俊介追悼録』8頁
- ^ 軍司令官と対立したとも(『山田俊介追悼録』75頁)実力を高く評価した武部六蔵総務長官らが日本に返したとも(『山田俊介追悼録』24頁 - 25頁)、総務長官に疎まれ、最後には大喧嘩をして帰国させられたとも(『山田俊介追悼録』8頁)、言われている。しかし、在満官僚は山田と武部の不仲に言及しておらず、概ね良い関係であったようである。
- ^ 逗子市の人口規模からみれば当時では全国有数の施設を備える近代図書館であった。前身は逗子アメリカ図書館。
- ^ 池子住宅地区及び海軍補助施設、第一運動公園 (逗子市)を参照。
- ^ 山田の死後、先妻・明子の甥夫妻を養子とする。
出典
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