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山本浩二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/14 05:06 UTC 版)
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県広島市 |
| 生年月日 | 1946年10月25日(65歳) |
| 身長 体重 |
183cm 82kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年4月12日 |
| 最終出場 | 1986年10月27日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 2008年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。本名及び旧登録名は「山本 浩司」(1974年まで)。
現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍した。「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれ、引退後も広島監督を2度務めた。北京オリンピック野球日本代表守備走塁コーチ。
目次 |
経歴
アマチュア時代
広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)出身。子供の頃、当時の広島カープの本拠地・広島県営球場に、父に連れられて太田川対岸から渡し船で何度も通い、この時代の広島の主力、エースピッチャー・長谷川良平、四番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、これらを全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ。
16歳の時、自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって、野球では全くの無名だった広島県立廿日市高等学校へと進学、入学入部と同時にエース・四番となる(県内の同期には高橋一三、小川邦和らがいる)。3年時には主将として広島県予選を勝ち抜き、もう少しで甲子園に手が届く所まで勝ち進んだが、準決勝で広陵高等学校に17安打を打たれ涙を飲んだ。
しかし、その評判を人伝に聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督の目に留まる。鶴岡は「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧め、それを受けて1965年、高校卒業と同時に法政大学に入学した。鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている。
大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人いた当時の法大では台頭できず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違い、富田勝、桑原秀範らと共に一般部員の立場に甘んじていた。2年時、山中正竹の入部をきっかけに外野にコンバートされ、松永怜一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花、2年生にしてクリーンナップに抜擢される。やがて山本は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」の異名を取り、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となっていった。リーグ通算65試合出場、229打数67安打、打率.293、8本塁打、30打点。ベストナイン2回。
なお、法大では文学部英文学科で学んだが、卒業はしていない。そのため、プロフィールには法政大学「卒」ではなく「出」と記載されている。
現役時代
1968年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。
1969年4月12日の開幕戦で6番打者・中堅手としてスタメン出場し、初出場を果たす。レギュラーの座を勝ち取ると、シーズン後半には4番打者などのクリーンナップを任されるようになり、1970年は3番打者、1971年は主に5番打者、1972年は主に1番打者や5番打者を務めるなど、チームの主力として活躍した。しかし打撃の成績自体は特筆されるようなものがなく、長らく平凡な中距離打者として脇を固めていた。その後、根本陸夫、上田利治、関根潤三、広岡達朗ら指導者にも恵まれ、徐々に成長を見せる。1974年には主に3番打者を務め、打率.275、28本塁打、74打点という好成績を残した。同年シーズンオフ、姓名判断で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたため、名前を「浩司」から「浩二」に改名した。
翌年の1975年6月下旬から4番打者に定着。オールスターゲーム第1戦では、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵幸一とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄と共に二打席連続アベック本塁打を放った。このアベック本塁打は、オールスターゲームの名場面としてよく紹介される。同年シーズンは好調を維持し、首位打者を中日の井上弘昭と最後まで争い、広島と中日の最終戦で打率首位の自身は欠場して、古葉竹識監督が井上を満塁でも敬遠して打率首位を守り、首位打者を獲得した。最終的に打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁という自己最高の成績を記録し、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を達成。チーム初優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVPに輝いた。優勝を決めた10月15日の対巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。
打者として本格的に才能が開花したのは30代になってからであった。開花したきっかけは、法政大学時代から持病となっていた腰痛である。年が経つにつれてそれがひどくなり、自らは休養を求めたが、古葉監督が休養を許さなかったため、出場を続けた。そうした中で、山本は腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす広角打法を習得。これにより右翼への流し打ち本塁打の名手になり、長距離打者として開眼した。
1977年から5年連続40本塁打を記録。この記録を持つのは王貞治と山本のみである。1978年、1980年、1981年、1983年と4度の本塁打王に輝き、打点王も3度獲得した。また、強肩巧守のセンターとしても鳴らし、1972年から1981年までゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。通算10回受賞はセ・リーグの外野手としては歴代最多である。外野手として残した通算4637刺殺、通算154補殺、通算4830守備機会は、それぞれセ・リーグ記録であり、日本プロ野球歴代でも2位に位置する。1975年には302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立しており、守備機会の多さの割に通算失策数も39と少なく、技術の高い捕球や正確無比な送球で知られた。足も速く、11年連続でシーズン2桁盗塁を記録しており、通算でも231個の盗塁を記録している。このように走攻守の三拍子揃った選手として、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に広島黄金時代を築いた。
1980年前後から足や肩に陰りが見え始めたことや、長嶋清幸と山崎隆造が台頭してきたこともあり、1983年より左翼手にコンバート。同年4月30日の対阪神戦(甲子園)ではサイクル安打を記録した。1984年より打撃コーチを兼任し、この年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いてこの頃の球界最高額となる年俸8500万円で契約した。1985年には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成(この記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。
1986年、リーグ優勝を花道に、40歳で現役引退した。この年、チームは130試合制の129試合目にリーグ優勝を決め、日本シリーズも第8戦まで行ったため、日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。試合には敗れ、西武に優勝を譲ったが、広島ナインから惜別の胴上げを受け広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた。翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。
名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。最終年の1986年にも打率.276を記録し、27本の本塁打を放っている。早すぎる引退に見えるが、持病の腰痛の悪化が大きかったとされる。
大学出身者での通算536本塁打は日本最多記録である。7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割を30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。
引退後・監督時代
引退後はNHKの野球解説者を務め、1989年、監督に就任する。1989年、1990年はリーグ2位、1991年にはリーグ優勝を果たした。1992年も4位ではあったが、まれにみる混戦状態の中、最後まで優勝争いに加わり続けた。しかし、1993年には現役時代の1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、その責任をとる形で辞任した。
その後、日本テレビ・広島テレビ放送での解説者[1]をしていたが、球団の要請で2001年再び広島監督に就任。在任中に一度もチームをAクラスに導くことなく2005年、成績不振により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で古葉竹識、白石勝巳の11年に次ぐ長期政権となった。
監督時代、第一期政権時代には前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第二期政権時代には新井貴浩や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。
2006年より、日本テレビ、広島テレビ解説者に復帰。また2007年、星野仙一監督の下、北京オリンピック野球代表チームの守備走塁コーチに就任し結果は4位で終わった。
2008年、野球殿堂入り。 2010年、プロ野球名球会の副会長に就任する。
交友関係
大学の同期であった田淵幸一(後のダイエー監督)、六大学リーグで何度となく対戦した星野仙一(後の中日・阪神監督)とは、大学時代から同学年の親友として有名である。大学入学後、田淵が山本に東京の案内をしたのがきっかけで二人が仲良くなったあと、あまりに二人が仲がいいので大学は違うが星野が妬いて入ってきたという。プロ入り後、みな家庭を持った後も、シーズン中に対戦があると、よく互いの家に泊まりあっていた。敵チームの選手宅に泊るのは好ましいことでは無いが、ファンも彼らのことは黙認していたという。また、山本が現役引退を決意した時、最初に打ち明けたのも田淵と星野であり、星野が阪神の監督辞任を決意し、田淵に「次(監督)お前やれ」と伝えた(田淵は固辞)のも、広島の山本宅に向かう途中のタクシーの中だったという。
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- ^ 広島戦が主であるが、日テレとの契約の関係で巨人戦の東京ドームの試合も数多く出演している
- ^ そのスパイの手法として当時最も話題となったのは、選手の股間近くに小型のバイブレーターを仕込み、外野席などから双眼鏡等で球種を覗き、無線でバイブに伝え震える回数によって球種を選手に教えるというものだった。実際に使用した球団があったかは不明だが、この機械自体は2008年、NHKのドラマにもなった高畠導宏の生涯を書いた門田隆将著 『甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』 講談社の中に高畠が電機メーカーに頼んで100万円かけて作ったという件がある。
- ^ 週刊プレイボーイ、集英社、2008年7月7日号、159頁
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