尾張国分寺
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尾張国分寺(おわりこくぶんじ)は、愛知県稲沢市矢合町(やわせちょう)にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は鈴置山。本尊は薬師如来。
- ^ 願興寺比定地の尾張元興寺跡(名古屋市中区)の発掘調査では、10世紀以降に出土品は激減するため、この頃願興寺は廃寺に至ったと見られる。一方、国分尼寺は史料上で11世紀初頭までの存続が確認されるため、10世紀以降は尾張国分尼寺が国分寺に転用されたとする説がある (中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117、国分寺(角川) & 1989年)
- ^ a b c d e f 国分寺(平凡社) & 1981年.
- ^ a b c 国分寺(角川) & 1989年.
- ^ a b 尾張国分寺跡(平凡社) & 1981年.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市) & 2014年.
- ^ a b 2章 尾張国分寺跡をとりまく環境(稲沢市) & 2014年.
- ^ a b c d e f g h 中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117.
- ^ a b 尾張国分寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b 法華寺(平凡社) & 1981年.
- ^ 木造薬師如来坐像(稲沢市ホームページ)。
- ^ 木造釈迦如来坐像 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造釈迦如来坐像(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 木造釈迦如来坐像(稲沢市ホームページ)。
- ^ 木造釈迦如来坐像 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造釈迦如来坐像(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 木造釈迦如来坐像(稲沢市ホームページ)。
- ^ 木造伝覚山和尚坐像 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造伝覚山和尚坐像(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 木造伝覚山和尚坐像(稲沢市ホームページ)。
- ^ 木造伝熱田大宮司夫妻坐像 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造伝熱田大宮司夫妻坐像(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 木造伝熱田大宮司夫妻坐像(稲沢市ホームページ)。
- ^ 尾張国分寺跡(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 史跡尾張国分寺跡(稲沢市ホームページ)。
- ^ 平成30年10月15日文部科学省告示第195号。
- 1 尾張国分寺とは
- 2 尾張国分寺の概要
- 3 概要
- 4 文化財
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
尾張国分尼寺
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古代の国分尼寺の遺構は未詳。所在は、国分寺跡から北西約1.5キロメートルの稲沢市法花寺町の法華寺(北緯35度14分42.16秒 東経136度45分57.47秒 / 北緯35.2450444度 東経136.7659639度 / 35.2450444; 136.7659639 (法華寺(尾張国分尼寺推定地)))付近と推定される。これは、江戸時代中期に天野信景が『塩尻』において、国分尼寺の名残が法花寺村の法華寺にあたると記して以来の説である。しかし現在までに発掘調査は行われていないため、詳細は明らかでない。付近の民家において、礎石と見られる庭石4個が認められている。 史料では、永延2年(988年)の『尾張国郡司百姓等解文』において尾張守の藤原元命が尼寺修理料を下行しない旨が見えるほか、大江匡房の寛弘6年(1009年)奏状において長保3年(1001年)から寛弘元年(1004年)の間に尼寺修造の旨が記される。このように国分寺より長い11世紀までの存続が確認されるが、その後の経緯は不詳。上記の法華寺は、寺伝では永正年間(1504年-1521年)に無味禅公が才赦桂林を招き、尼寺跡地に一宇を建てて「大鈴山国鎮寺」と号したことに始まるといい、織田氏の兵火に遭ったが残った小堂を現在地に移したという。近世の一時期は「大齢山谷椿寺」と改称したが再び「国鎮寺」に戻し、のち明治20年(1887年)に「法華寺」と改称して現在に至っている。この法華寺では、平安時代末期作の木造薬師如来坐像(国の重要文化財)が伝わっている。
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