寛元の政変とは? わかりやすく解説

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宮騒動

(寛元の政変 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/09 02:37 UTC 版)

宮騒動(みやそうどう)は、鎌倉時代寛元4年(1246年)閏4月以降に起きた、北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍藤原頼経(九条頼経)鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱(かんげんのらん)、寛元の政変(かんげんのせいへん)ともいう。また、首謀者より名越の乱(なごえのらん)、名越の変(なごえのへん)とも呼ばれる[1]


注釈

  1. ^ 佐渡院(順徳上皇)の三宮が「六条宮」を称したとする内容であるが、併記されている一宮には尊覚法親王、二宮には覚恵法親王と注記されており、順徳上皇の皇子の中でも藤原清季の娘所生の皇子に限定された記述と考えられる。忠成王は順徳上皇の皇子全体では第五皇子であるが、清季の娘の子に限定すれば3番目の皇子(=三宮)にあたる[7]

出典

  1. ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、318・365頁。
  2. ^ a b 高橋慎一朗 『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年、53頁。 
  3. ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、320頁。
  4. ^ 井上幸治「九条道家-院政を布いた大殿-」平雅行 編 『公武権力の変容と仏教界』清文堂出版〈中世の人物 第三巻〉、2014年7月。ISBN 978-4-7924-0996-8
  5. ^ a b 鈴木かほる「寛元の政変・宝治合戦の通説への疑問-建長・弘長騒動までを見直す-」『鎌倉遺文研究』38号、2016年。
  6. ^ a b c d e f 曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.217-252.
  7. ^ 曽我部、2021年、P227-228.
  8. ^ 曽我部愛「鎌倉期王家の構造と変容」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.183-216.(原論文:『ヒストリア』第277号、2019年)


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