宮澤清六
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宮沢 清六(みやざわ せいろく、旧字体: 宮澤 淸六、1904年(明治37年)4月1日 - 2001年(平成13年)6月12日)は、宮沢賢治と宮沢トシの実弟。全集の校訂者として賢治研究に貢献した。宮沢和樹は孫。
- ^ 当時の研数学館は受験予備校ではなく数学の私塾だった。
- ^ 賢治が質・古着商を嫌悪したことはよく知られているが、父・政次郎もより近代的な事業への転業の必要性は認識していた。賢治は盛岡高等農林学校の研究生時代に人造宝石製造業のプランを出したが、政次郎は事業性を疑問視し、実現しなかった。
- ^ 後藤総一郎, 入沢康夫「体験的書誌学論-『校本宮沢賢治全集』と『柳田国男全集』の編集を通じて-」『図書の譜:明治大学図書館紀要』第1号、明治大学図書館、1997年3月、1-32頁、ISSN 1342-808X、NAID 120005259989。 入沢康夫と後藤総一郎の対談。校本全集刊行決定の経緯が紹介されている)
- ^ 山下聖美は、1999年の著書『検証・宮沢賢治論』(D文学研究会・星雲社)で「賢治に都合の悪いことを言おうとする研究者に圧力をかけ、「銀河鉄道の夜」の猫によるアニメーション化にも反対し続けた」(最終的には天沢退二郎らの説得により了承し、その仕上がりを評価した)と記している。もっとも「圧力」を裏付ける具体的な事例は示されておらず、この見解が研究者の間で広く共有されているとは言い難い(清六の生前より賢治に好意的ではない評論は複数存在する)。
- ^ a b “光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開”. 朝日新聞. (2020年8月22日) 2021年2月28日閲覧。
- ^ a b 宮沢清六「花巻から山小屋までの高村先生」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、pp.152 - 157(初出は『文藝』臨時増刊『高村光太郎読本』、河出書房、1956年)
- ^ 宮沢清六「焼け残った教材絵図について」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、pp.158 - 163(初出は『宮澤賢治 科学の世界-教材絵図の研究』筑摩書房、1984年)
- ^ 宮沢和樹 2021, pp. 45–46.
- ^ 宮沢清六「『修羅の渚』にて」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、p.131(初出は『現代日本の文学』6巻、学習研究社の月報、1971年10月)
- ^ 入沢康夫「宮沢清六さんのこと」『兄のトランク』筑摩書房<ちくま文庫>、1991年(解説として寄稿)
- ^ 宮沢和樹 2021, pp. 176–177.
- ^ a b 宮沢和樹 2021, pp. 75–78.
宮沢清六(みやざわ せいろく)
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賢治の弟。
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