宮内庁長官
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1948年(昭和23年)6月、芦田均首相によって宮内府長官に任命される。昭和天皇は宮内府長官・松平慶民と侍従長・大金益次郎を交代させることに難色を示していたが、芦田は宮中改革を実行するために交代を断行し田島が宮内府長官、三谷隆信が侍従長のコンビが成立した。その後、宮内府は宮内庁と改称され、宮内省時代の官僚機構も縮小・改変されるが、田島は占領時代にあって、芦田の後、首相になった吉田茂と密接に連絡を取り合い、戦後の天皇、皇室を取り巻く諸問題に当たっていった。弱音を吐かないことでは天下一品と言われ、従来、侍従職などのいわゆる「オク」の力が強い宮中、宮内庁で長官官房に権限を集中させた。 新渡戸内村門下生の三谷隆信と、田島(宮内庁長官)三谷(侍従長、1965年(昭和40年)まで)の「宮中クリスチャンコンビ」として、戦後の宮中改革に尽力した。このコンビは、田島が宮内庁長官の後任にクリスチャンの宇佐美毅を指名し、「田島-三谷」から「宇佐美-三谷」にリレーされた。そして宮中の民主主義教育の促進や美智子皇太子妃の実現などの功績を残すことになった。
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