実名敬避俗とは? わかりやすく解説

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実名敬避俗

読み方:じつめいけいひぞく

貴人や親など、目上人間実名を口にしたり書いたりすることをタブー視する風習という意味で、法学者穂積陳重定義した語。中国避諱の例が有名だが、世界各地同様の風習見られるともいわれる

(実名敬避俗 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 04:21 UTC 版)

(いみな)とは、人名の一要素に対する中国など東アジア漢字圏における呼称である。「忌み名」とも表記される。


注釈

  1. ^ 貞明皇后が皇太后在位中には「天皇皇后皇太后三陛下」の語が使用された。
  2. ^ 諱の正確な発音は失われており、後世の推測による。当該項目参照。

出典

  1. ^ 顧炎武日知録』に「生曰名死曰諱」とある。
  2. ^ 素焼きの器。瓦盆
  3. ^ 三国志』魏書25高堂隆伝
  4. ^ 本居宣長『古事記伝』巻35-11
  5. ^ 穂積陳重『実名敬避俗研究』 刀江書院、大正15年初版、絶版。口語訳:穂積陳重・著、穂積重行・校訂『忌み名の研究』 講談社、講談社学術文庫 1992年3月10日初版 ISBN 4061590170
  6. ^ 近代デジタルライブラリー - 実名敬避俗研究 - 国立国会図書館
  7. ^ 前掲、陳重『忌み名の研究』 p.53-60
  8. ^ 前掲、宣長 巻3
  9. ^ 前掲、陳重『忌み名の研究』 p.58-59
  10. ^ 特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~”. NHK大河ドラマ真田丸』. 2016年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月20日閲覧。
  11. ^ 本来の通字は斯波(初代当主)・斯波宗(2代当主)・斯波(3代当主)・斯波(初名:時。3代当主の子で4代当主の弟)・斯波(4代当主の長子)などの例から「家」字であったと思われる。
  12. ^ 小久保嘉紀「将軍偏諱の授与とその認知―相良義陽の事例から―」(初出:『九州史学』173号(2016年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9
  13. ^ 司教協議会への手紙――「神の名」について - カトリック中央協議会 フランシス・アリンゼ、アルバート・マルコム・ランジス


「諱」の続きの解説一覧

実名敬避俗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:35 UTC 版)

「諱」の記事における「実名敬避俗」の解説

実名を敬避する(敬って避ける)習俗という意味の語である。漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許されそれ以外人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名その人物の霊的な人格強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊人格支配することができると考えられたためである。 その一例として高堂隆逸話挙げられる。『都の督軍薛悌論争したとき、薛悌を名前で呼んで怒鳴りつけた。高堂隆は剣の柄に手をかけて督軍叱り、「昔、定公侮辱されたとき、仲尼(孔子)は階段上がってたしなめ趙王が秦の琴を弾かされたとき、藺相如秦王に缶(かめ。打楽器として使う。)を叩かせた。下臣前にして主君を名前で呼べば道義では討ち果たすことになっている。」督軍真っ青になり、薛悌慌てて起(た)ち上がり彼を引き留めた。』 日本では本居宣長の説が主流であった。それによれば、諱とは中国から伝わった漢意であって日本古来風習ではなく、むしろ日本では古来、名前とは美称であった。そしてのちに漢国(中国)の風俗にならい、名指し無礼とされるようになった、と宣長考えたのである。しかし穂積陳重は、フレイザー金枝篇』などの文献独自に調査しこのような前に関すタブー漢字文化圏のみならず世界各地存在することを突き止めた述べた。そして日本でも中国の諱の礼制が導入される以前から、実名避け習慣存在したとして、これを「実名敬避俗」と定義した。また陳重は、宣長が名前を美称認識したのは、『古事記』『日本書紀』記録された神や天皇の名前は、実名多く忘れ去られ、副称・尊号のみが伝えられ結果指摘した。たとえば、伊耶那美命伊邪那岐命神名は、賀茂真淵宣長 の説に従い「伊耶(イザ)」を「誘語(いざなふことば)」の意味、すなわち国産みのための遘合を互いに誘ったことから呼んだものとすれば、これは明らかに後から奉られ尊号であって実名ではないことになる。 実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱(ひき)」という。特に天子皇帝)の諱は厳重に避けられ詔勅以下の公文書にも一切使われず、同じ字を使った臣下地名官職名改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどのあらゆる手段用いて使われないようにした。例えば、漢の初代皇帝劉邦の諱は「邦」であったため、漢代には「邦」の字は全く使用できなくなり以後「国」の字を使うことが一般化戦国時代に「相邦」と呼ばれていた役職相国となった避諱実際時代によって異なるが、多く王朝初代、現皇帝から8代前までさかのぼ歴代皇帝の諱を避けた。また皇帝のほか、自分の親の名も避諱対象となった例えば、杜甫たくさんの詩を残したが、父の名である「閑」という字はすべての作品使用しなかった)。(詳しく避諱の項を参照。) 日本には親の実名避ける例はほとんど見られないが、中国の影響大きかった桓武天皇時代編纂された正史『続日本紀』において、天皇の父である光天皇即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記避けて大納言)「諱」と記載されている。 江戸時代中頃以降は、将軍家当主家族の諱と名のり実名に使うのを避け傾向があり、諸藩においては将軍家加えて藩主とその家族実名および名のり避けた後述する将軍から大名家当主世子等への偏諱授与場合を除く)。この場合は、将軍家藩主家の娘の名も使用避け対象であった具体例としては、徳川綱吉の時代綱吉の娘、鶴姫と同じ「つる」という名を変えた例や、長州藩毛利重就当初「しげなり」という名のりだったのを、徳川家斉将軍になってからは「しげたか」と改めた例がある。また薩摩藩では、将軍家当主正室子女の諱、及び藩主とその正室子女実名および名のり避けるように藩法規定していたことが、「薩藩政要録」や「三州治世要覧」から分かる。その他、「仙台市史 通史4 近世2」によれば伊達宗村徳川吉宗養女利根姫雲松院)が嫁ぐと、領内での「とね」という女性名禁止され武家庶民別なく「とね」の名を持つ女性改名令達されている。 安政5年10月松平茂昭将軍家茂の偏諱を賜って名を直廉から茂昭と改めたこの年以後福井藩民の名の茂の字は忌諱によってすべて改められ人別張等には左衛門兵衛等と記されている。 薩摩藩ではまた、将軍家及び藩主家実名名のり禁止は、将軍家藩主家一族死去もしくは結婚などで家を出た場合には解除されたことが「鹿児島県史料」で散見される

※この「実名敬避俗」の解説は、「諱」の解説の一部です。
「実名敬避俗」を含む「諱」の記事については、「諱」の概要を参照ください。

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