安住の家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:35 UTC 版)
だがメリックは当面の治療を必要としない慢性患者であったため、この措置も同年末には限界に達し、同年12月4日には事態打開を図るべく、ロンドン病院理事長フランシス・カー・ゴム(Francis Carr Gomm)の投稿が「タイムズ」紙に掲載された。そのなかでカー・ゴムは、メリックはその容貌ゆえに就業は不可能であり、よって経済的自立も出来ない、一般の患者と一緒に療養させることも、他の患者に与える影響を考えればやはり避けるべきだが、難病患者のための公的な療養施設である王立施療院、国立養護ホームには共に受け入れを拒否された、そして本人は救貧院を非常に強く忌避している、といった事情を説明し、メリックを居住させるための個室の設置と、今後の彼の生活のための資金の寄付を求めた。12月11日には『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌もカー・ゴムの投書について報じ、他の多くの一般紙、地方紙もこれに追随。これらの報道の結果膨大な量の手紙、多額の寄付金が寄せられ、年金の支給を申し出る篤志家も現れた が、一方では彼を盲人病院、灯台、刑務所といった場所に送れという投書もわずかながら寄せられたという。こうした社会の反応を踏まえ、理事会はメリックの収容延長を決定。ロンドン病院付主任技師であったウィリアム・テイラーの主導のもと、「ベッドステッド・スクエア」と呼ばれていた中庭に面した、大小二つの地下室がメリックの住居として改装された。大きい方の部屋は居間兼寝室として、ベッドやテーブル、数脚の椅子、小さな暖炉が備えられ、小さいほうのもう一部屋は浴室となった。そしてトレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡は一つも設置されなかった。
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