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孫子 (書物)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/18 11:31 UTC 版)
『孫子』(そんし)は、中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書。後に武経七書の一つに数えられている。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。
- ^ 理由としては孫子の本文に出てくる事物や思想が春秋時代にはあり得ないものが複数指摘されているためである。例えば、武内義雄の説(「孫子十三編の作者」『武内義雄全集』第7巻、角川書店、1979年、ISBN B000J8H722)など。貝塚茂樹(『諸子百家』岩波新書)もそれに賛同している。
- ^ 複数の文献に孫子十三篇という名が出ることから見て、この時点で既に十三篇だった可能性もある。金谷治(2000)は「当時の諸子百家の思想書の成立形態から言って、孫武が残したこの段階のものは口伝やメモの類であり、その後継者たちが次第に書物の形に整えたものであろう」と推定している。天野鎮雄(1972)は、現在の孫子十三篇の重複・説明部分を大幅に削除して推定復元した、十三篇からなる「原孫子」の存在を考えているが、天野の説は山本七平(2005)以外、全面的に賛成している研究者は非常に少ない。例えば守屋淳(2005)は「正鵠を得ているかどうか俄に判定できない」としており、この時点の孫子の形は不明である。
- ^ 『呉孫子兵法』82巻・図9巻に相当するか。天野(1972)は、孫子十三篇と別に解説書が六十九篇あり、それらを合算して八十二巻の孫子になっていたと考えている。
- ^ いわゆる魏武注孫子。(魏武は曹操の諡号「魏武帝」から。曹操の「魏武帝註孫子序」には、「解説の文章が多すぎて分かりにくくなっているので、要点のみにして注を行った」とあり、これが古来の「曹操孫子筆削(削除)説」の根拠になっていた。しかし、魏武注孫子と『竹簡孫子』とは編目・本文が共通箇所が多い。金谷(2000)は、この曹操の筆削の詳細は不明ながら、曹操は後世の付加と推測される巻のみを削ったのだろうと考えている。天野(1972)も大略は同じ。
- ^ 『古文孫子』について、天野(1972)によれば江戸時代には安積艮斎などに三国時代以前の孫子の形態を残すものと考える説があった。現代の研究では『古文孫子』が魏武注よりも古いかどうかは疑問視されており、金谷(2000)は「桜田氏により改められている箇所もあると考えられるが、古い形態を残している箇所もある」と述べているが、天野(1972)は「文章が改変されている形跡が多く後世の作為が多い」と考えている。
- ^ 中島悟史(2004)は、曹操が配下のために兵法を多数研究しており、その成果の一つが魏武注孫子だと考えている。実際、曹操の部下の賈詡や王凌も孫子に通じて注釈を残した(いずれも現存せず)。「武経七書直解」は序文で明確に、明朝の武人教育用に書かれた注釈であることを謳っている
- ^ 平田(2009)、p65
- ^ 平田(2009)、p71
- ^ 平田(2009)、pp124-128
- ^ フランシス・ワン仏訳・小野繁重訳・重松正彦注記『孫子』葦書房、1991年、ISBN 4751200305。
- ^ レイモン・アロン著・佐藤毅夫ほか訳『戦争を考える―クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、1978年、pp395-416 並びに 川村康之『戦略論体系2クラウゼヴィッツ』芙蓉書房出版、2001年、p329。
- ^ ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー著・中村好寿訳『制限戦争指導論』原書房、2009年、p80-106
- ^ 浅野(1997)。
- ^ ただ南北朝時代、楠木正成や北畠親房は『孫子』を学んだという逸話が残っている。
- ^ 山本(2005)。ただし、山本が当時の史料『看羊録』によって指摘するように、戦国武将は孫子などの兵法書を持っていても、読解する能力がなく「物読み坊主」といわれる漢文の解釈ができる僧侶に講義をしてもらって理解していたとされる。
- ^ 浅野(1997)。ただし、浅野によれば武田家の孫子理解能力は低く、甲陽軍鑑によれば山本勘助が「孫子の兵法はそのままでは日本では役に立たない」などと発言していたという。
[続きの解説]
「孫子 (書物)」の続きの解説一覧
- 1 孫子 (書物)とは
- 2 孫子 (書物)の概要
- 3 評価
- 4 『孫子』と日本
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
孫子_(書物)に関連した本
- 『孫子』―解答のない兵法 (書物誕生―あたらしい古典入門) 平田 昌司 岩波書店
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