天動説から地動説へ
14世紀ごろ、大航海の船乗りたちが船の位置を知るために天体をたよりにする必要から、天文学がさかんに研究されるようになりました。観測技術が進歩するにつれて、天動説では説明できないことも多くなり、天動説に疑問をいだく学者も出てきました。
地動説への「コペルニクス的転回」
天球が回転しているとするプトレマイオスの天動説(てんどうせつ)宇宙によれば、天体では、多くの星があまりにも複雑な動きをしていました。そのつじつま合わせ的な説明に疑いをもったのがコペルニクス(1473~1543年)です。コペルニクスは、宇宙は数学的にもっと合理的な運動をしているのではないか、と考え、太陽を中心におき、そのまわりを地球をはじめとした惑星(わくせい)が回転しているという宇宙の姿を考えました。これが現在「コペルニクス的転回」と呼ばれる地動説(ちどうせつ)です。この説を述べた著書は、宗教的な配慮から書名を『天球の回転について』とされ、出版されたのも彼の死の直前でした。人間の住む地球が中心ではないという学説は、聖書の記述こそを真実としていた当時では、あまりにも先進的で過激な考え方だったのです。
はげしくせめぎ合う「天動説」と「地動説」
しかし、天体の運動を明快に説明するコペルニクスの地動説は、しだいにその後の天文学者に影響を与えていきます。デンマークのティコ・ブラーエ(1546~1601年)は地動説に反対する立場をとる天文学者で、地動説の誤りを証明しようと20年以上にわたって天体観測を続けました。皮肉なことに、ブラーエの死後、助手であったドイツのヨハン・ケプラー(1571~1630年)が、ブラーエの残したたくさんの観測データを受けつぎ、惑星の運動に関する「ケプラーの法則」を発見するのです。
地動説を裏づけた、17世紀のガリレオの発見
一方、イタリアのフィレンツェでは、ガリレオ・ガリレイ(1546~1642年)が、はじめて望遠鏡による天体観測をおこない、1640年、木星のまわりを回る4つの衛星を発見します。ガリレオが望遠鏡で見た宇宙の姿は、まさにコペルニクスの地動説を裏づけるものでした。1300年にわたって支持されてきたプトレマイオスの宇宙は、16世紀から17世紀にかけて実質的には否定されるわけですが、ガリレオが宗教裁判(しゅうきょうさいばん)で自説を曲げざるをえなかったように、ローマの教会の力は依然として強く、「科学的」に宇宙が語られるようになるには、ニュートンの物理学の成果を待たなければなりません。
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