景行天皇
景行天皇には皇后、皇妃が多くまた子供が80人もいたという。
播磨稲日大郎姫との間には、日本武尊(やまとたけるのみこと)がいる。
この日本武尊については語ることが多くここでは記載できないので、別な機会があれば書いてみたいと考えている。
さて、この天皇(三輪王朝三代目)自身の業績は、熊襲征伐のために九州遠征に行ったり、屯倉・田部を設置したということが知られているだけだが、個人的な見解だが、日本武尊を登場させ諸国へ遠征させているが、これは日本武尊の名を借りて三輪王朝というより三輪大王家が威信をかけて全国を平定していく過程を比喩的にあらわしたものではないかと考えている。
大王家が諸国を統一していく過程にあると考えたほうがよい。
第12代天皇 | |
天皇名 | 景行天皇 |
読み方 | けいこうてんのう |
名・諱等 | 大足彦忍代別尊 |
読み方 | おおたらしひこおしろわけのみこと |
時代区分 | 神代 |
天皇在位 | 71?年から130?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 垂仁天皇 |
母 | 日葉酢媛命 |
兄弟 | 五十瓊敷入彦命・倭姫命・誉津別皇子 |
配偶者 | 八坂入媛命 |
皇子女 | 稚足彦尊・日本武尊 |
即位宮 | 纒向日代宮 |
天皇陵 | 山邊道上陵 |
所在地 | 奈良県天理市渋谷町 |
景行天皇
(大足彦忍代別尊 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 22:57 UTC 版)
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父[1]。纒向遺跡付近に都したと伝えられる最後の天皇であり、考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、定かではない。
注釈
- ^ 『古事記』では、倭建命が死の直前に大和を懐かしんで詠んだ歌とされる。
- ^ 『日本書紀』の表記は「彦人大兄」であり敬称は付いていない。『古事記』では「日子人之大兄王」。
- ^ 『古事記』のヤマトタケルの系譜では男系で孫、女系で玄孫となりいずれも合わない。景行天皇の曾孫なら合うが世代的に不合理である。父を若建王でなく若建吉備津日子命とすればヤマトタラシヒコの曾孫となる。
- ^ 景行天皇60年条に依る。垂仁天皇37年の立太子年から計算した崩年は143歳。
- ^ 志賀の高穴穂宮、これは詳細がまったくわかりません。「古事記」及び「日本書紀」に出てくるだけでございまして、「古事記」には成務天皇、「日本書紀」には景行天皇の宮都として出て参りますが、成務、景行という天皇自身の実在性を含めまして、高穴穂宮が実在したのか?どうかはわかりません。「近江・大津になぜ都は営まれたのか?」 大津市歴史博物館 P59
出典
- ^ a b c d 門脇(1979)p.192
- ^ “厚鹿文”. コトバンク. 2022年2月3日閲覧。
- ^ 朝日日本歴史人物事典. “熊曾建”. コトバンク. 2019年4月23日閲覧。
- ^ 国史大系. 第1巻 日本書紀. 経済雑誌社. p. 137(国立国会図書館)
- ^ a b c 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) 文庫 p302
- ^ 天皇〈125代〉の歴史 山本博文 2018年 西東社 p36
- ^ 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
- ^ 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
- ^ a b 荊木美行「景行天皇朝の征討伝承をめぐって」『日本書紀の成立と史料性』燃焼社、2022年、153-195頁。(原論文:『萬葉集研究』第37冊、塙書房、2020年)
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