大久保忠真とは?

大久保忠真

読み方おおくぼ  ただざね

江戸後期小田原藩主・老中江戸生。姓は藤原通称は秀次郎・新十郎、字は公淑、楽園岳と号する和歌北村季文賀茂季鷹に学ぶ。天保8年(1837)歿、57才。

大久保忠真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/18 01:58 UTC 版)

大久保 忠真(おおくぼ ただざね)は、江戸時代後期の譜代大名老中相模国小田原藩第7代藩主。小田原藩大久保家9代。




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注釈

  1. ^ 藩校が小田原市にあったので神奈川県立小田原高等学校の前身と誤解されやすいが、正確には同藩校は、文武館、県学校文武館、共同学校、小田原師範学校、六郡共立小田原中学校、五郡共立小田原中学校、三郡共立学校という変遷を経ている。そして神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 別編1 人物』「伊東希元」においても「三郡立学校(小田原中学校、蓬莱学校の後身)」とされている。なお伊東希元は津久井郡が六郡から脱退した後の五郡共立小田原中学校および三郡共立学校の漢学教師だった人物であり、その遺稿である「三郡共立学校記」にも「初め、校の在、小田原なり。称して曰く、小田原中学校と。〔・・・〕。十七年、故あって、五郡解体し、各々はその資金を分け、これをもって小田原中学校は一閉してまた開かず。十八年に至り、上郡郡長中村舜次郎、大住淘綾郡郡長飯岡頼重及び有志諸氏は慨然、再興の議を唱え、遂に神奈川県庁に再三上申し、遂にその許しを得、大住郡金目村宗信寺を借り受け、すなわち初めてよく開校教授す。称して三郡共立学校とす。」とある[1]

出典

  1. ^ 神奈川県立秦野高等学校『秦野高等学校史』(ぎょうせい、1986年)221-222頁に収録。なお原文は漢文であり、適宜書き下し、句読点を加えた。


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